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06.黒白遊戯
王家に迎えられたという剣客は、見た目は恐ろしいほどに美しい男だった。
腰まである銀髪と額の絹の鉢巻き、そして金色の瞳に紅花のような唇。
足先まで真っ白な衣服を身に纏い、剣を佩いていなければとても剣士とは思えない風貌だ。
「それでは、明日の戌の初刻(※午後七時)までに参ります」
「うむ、うむ。よろしく頼むぞ、沈英雪」
家主の前で膝を折り、腕を前に出して頭を下げる。
さらりと肩を滑る銀糸に、その場にいた誰もが息を呑んだ。
王家の主らしい人物は、五十半ばと思われる頬の痩けた男だった。長いひげを蓄え、目は垂れ下がり、鼻先は赤く見える。
どこをどう見ても褒める点の無い雇い主に、沈英雪は表情を崩さずに嫌気を憶えていた。
(――金と権力を取れば、何も残らぬような男だ。姫はこんなつまらない男を通わせているのか)
思わずそんなことを毒づいてしまう。
元々、沈英雪は潔癖症な部分がある。
外見的にも内面的にも、汚れ切った部分をもつ対象という者を広く嫌っていた。
王家の門を潜り抜け、通りに出てからようやく深呼吸をする。ちなみに、王家からは事前に客間も用意されてはいたが、同じ敷地内にいるのも嫌なのか丁重に断っていた。
「――おい、美人が台無しだぞ」
「貴方のための顔ではない」
宿へと戻る為にひたすら歩いていると、途中で立っていた男にそんな声を掛けられた。
少し前からそこにいることに気づいていた沈英雪は、さらに眉間にしわを寄せつつ足を止めずに男を通り過ぎる。
「っと、止まれ」
「!」
目の前に差し出された手のひらに、沈英雪は思わず立ち止まった。
触れるか触れないかと言う位置だ。
「その汚い手を退けてください、沈梓昊」
「なんだよ、ちゃんと綺麗にしてあるぞ」
呼び止めた男は沈梓昊だった。彼の手のひらを嫌そうに避けつつ、沈英雪は横に一歩体をずらす。
それすらも許さないのが、目の前の男だった。
「……止まれ、『ハクタク』」
ハクタクと呼ばれた沈英雪は、その言葉と共に彼の腕に捕らわれてしまった。最初は腕を掴まれ、そのまま引き込まれてしまったのだ。
「往来で何をしているんですか」
「何って、俺の情侣を捕まえている」
「!!」
沈梓昊は躊躇いもなくそう言った。
その言葉に過剰に反応した沈英雪は、腰にあった自分の剣の柄を沈梓昊の腹に目がけて思い切り突き出し、殴った。それで一旦、距離を取ることが出来るためだ。
「ってぇ……」
「恥を知りなさい、『カイチ』」
彼の目は朱金に輝いていた。怒りの色である。
一方で、沈英雪の剣の柄を脇腹に受けてしまった沈梓昊は、やはり痛かったのか表情を崩している。それでも彼は、口の端の笑みは崩してはいなかった。
「私に近づかないでください。貴方にはほとほと呆れます」
沈英雪は静かに言葉を告げて、踵を返す。
「おい、英雪」
「…………」
大きく歩幅を取って、数歩歩いたところで、声が掛かる。
それでも沈英雪は、無視を決め込んだ。
「おーい、剣は鞘のままじゃ使えねぇぞ」
「!」
抜かれた感覚は無かった。
だが、腰を見れば自分の剣は鞘しかなく、本体は声の主の沈梓昊が握りしめている。
「……っ……」
ニヤニヤ、と笑みを浮かべているのは沈梓昊だった。
彼はそこから一歩も動かず、沈英雪の反応を伺っている。
戻らねばならない、と思うと、眉根が寄った。
「預かるぜ?」
「……っ、何!?」
沈英雪が沈梓昊の元へと再び一歩を寄せたところで、当の本人が地を蹴った。
体はひらりと舞い上がり、他家の塀の上に軽々と足をつけている。
「梓昊!」
「……お前の宿は俺が取り消してある。なぁ、二つ向こうの通りの角にさ、ここでの俺の拠点があるんだよ。廃屋だけどさ」
塀の上でしゃがみ込み、沈梓昊は得意気にそう言った。沈英雪の剣はしっかり右手に収まっている。
「まさか私に、そこまで取りに来いと?」
「そのまさかだよ。……じゃあな!」
「ま、待て……!」
沈梓昊はニヤリと笑って、塀の向こうに飛び去ってしまった。
一歩が遅くなった沈英雪は、結局その場から動けずに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、路地へと歩み進めていく。
「……何をやってるんだ、あの二人は」
そんなやりとりを遠くで見ていた尹馨は、呆れ口調でそう呟いた。
彼自身はと言うと、これから張家へと向かう所であった。
色々と所用を済ましていたので、予定していた時間より遅くなってしまった。
空を見上げれば、もう夕暮れだ。
「…………」
一週間ほど前、この空を遠くから見ていたなとふと思い出した。
広い海と、その上に浮かぶ霊峰が一枚の絵のように見えていた。
ここまで来て、果たして自分に何が出来るのかと漠然と考えてしまう。
そもそも、自分は己の為だけにこの霊峰を目指していたはずだ。
――静を頼むわね。
彼女との約束さえなければ。
出会っていなければ、こんなに手間をかける必要もなかっただろう。
「早く片付けられると思ったんだが……」
そんな独り言を漏らしている間に、足は張家へと門前へとたどり着いていた。
門番の男に恭しく一礼して、尹馨は口を開く。
「こちらで護衛を探していると聞き、参じました。張平どのにお目通りを願いたい」
「おお、そうか。では門内で待たれよ」
「かたじけない」
門番は快く扉を開け、尹馨を招き入れてくれた。危ぶまれないだけ良かったとは思うが、警戒心のほうはどうなのかとも思ってしまう。
それでも、所詮は『他人』だ。
そう割り切って、尹馨は張家の門をくぐり、案内を待つことにした。
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