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13.赤い目を持つ男
翌朝。
尹馨は大蛇がまだ眠っているのを確認してから、静かにねぐらを離れた。
大蛇のねぐらは洞窟になっていて、出入り口の外側に立った尹馨は、そこで無言のまま青い符を取り出し、何かを呟いて符を弾けさせた。結界であった。
――俺様を頼れ。
昨日、大蛇に言われたこと思い出し、苦笑する。
(あなたは怒るだろうな。だがこれ以上――巻き込めない)
それでなくとも、彼はここの主だ。
彼は何の苦労もないと言ってのけるが、その役目は一言では言い尽くせないほどの責がのしかかる。
だからこそ、『友』には自由であってほしいと願ってしまうのだ。
「駒になど……絶対になってくれるな」
俯きがちにそう言いながら、尹馨は踵を返して一歩を踏み込む。
目指す先は山頂にある『堂宇』。そのついでに大蛇が言っていた『邪なるもの』の姿も探しておきたいと思ってはいるが、増える可能性を考えるとある程度は放置したほうがいいのだろうか。
様々な事を考えつつ、彼はまだ日の上りきらない暗がりの岩肌を、数回蹴って迷いなく進んだ。
――そんな尹馨の後姿を、見ていた者がいた。
かの者は口の端に歪んだ笑みを浮かべて、血のような赤の目を細めてから、姿を消した。
「――ギャンッ!!」
そんな声を上げながら地に沈んだのは、野犬の姿をした妖魔――邪なるものだった。
人の二倍ほどの大きさではあったが、尹馨が手にしていた剣の一撃を浴びて、息の根を止める。
偶然というには出来過ぎている過程で、野犬と出会った。尹馨が移動を続けている間の途中から、林を通してだが追ってくる気配があった。
それを敢えて放置していると、開けた場に出た途端に襲い掛かってきたのだ。
「――――」
尹馨は何かを口にしかけて、それをやめる。
黙ったままで剣をはらい鞘に収めると、目の前で倒れた野犬に変化があった。
端から体が粉のように崩れ始めたのだ。
「……これは……毒分身か?」
真っ黒な煤のようなものが分散しつつ宙に舞う。四方に散るそれの一方を目で追っていると、その先で再び集合体となった煤は、その形を変えていった。猪と犬、そして百足のような姿のものもいる。
「なるほど、こういう仕組みだったのか」
尹馨はそう言いながら左に握る鞘を強く持ち直す。
この図式で行けば、倒せば倒すほど数が増えるという事だ。
大蛇は自分が倒した個体のことは放っておいたのだろう。彼は『邪』だと感じたものはたとえ好物の形であったとして口にはしない。
だとすれば、そんな彼の性質を知り尽くしていて、この邪なる妖魔を放った者がいる。
――お前を呪ったアイツが、動いているんじゃないのか?
(そうだな、蛇王。あなたはいつでも、鋭い考えを俺にぶつけてくる)
大蛇の言葉に返事をするかのようにして、尹馨は心でそんな事を言った。
その間にも彼は再び鞘から剣を抜き、諸刃である剣身をなぞるようにして指を滑らせた。
すると、その剣身はぼぅっと炎を纏い、輝き始める。
「……これで仕留められなければ、他に何か考えないとな」
尹馨はそう言いながら、自身の体をその場で片足を軸にして回転させた。彼に向かい、すでに四方の妖魔は飛び掛かってきていたからだ。
横に線を描くようにして、尹馨の剣は炎の軌跡を残す。
剣舞にも似たその動きは、しかし的確に敵を捕らえて、手ごたえがあった。
その切っ先に触れた妖魔たちは、あっという間に炎に包まれてバタバタと地に落ちたのだ。
今度こそ、その地に沈んた妖魔たちは、炎に包まれながら形を完全に崩していった。
「…………」
静かに一息をつく。
周囲にはもう妖魔の気配は感じられない。
だが、剣を鞘に収めてしまってはいけないと、何故か思った。それと同時に、尹馨の背後で空気が揺らめく気配がする。
「――お見事です、尹公子」
そんな声と共に、ゆっくりと拍手が聞こえた。とても相手を敬っているとは思えない『拍手』だった。
態度と言葉尻、声音全てを、尹馨は知っている。
「やはりお前か、沈夜辰」
尹馨は振り向きざまに手にしたままだった自分の剣をその相手に突きつけた。
相手は若い男だったが、驚きもせずに不気味に笑みを湛えている。
赤交じりの黒髪。
右分けの前髪とやはり後ろは長く、背骨を過ぎたあたりまでのその髪は細い三つ編みが数本見えた。
顔貌は美しいが、それだけでは済まされない怪しさと危うさを兼ね備えた姿だ。極めつけに、瞳の色が赤く、キツネのように目の端が吊り上がっている。
「まさかまた、この場でお会いできるとは思いませんでしたよ」
「何をしに来た」
「おっと、相変わらず怖いですねぇ。今日は何もしませんから、剣を下ろしてください」
「…………」
尹馨はそう言われて、ゆっくりと剣を下ろした。それに従わなければ、何をしでかすかわからない相手だからだ。
「もう一度聞く。何をしに来た」
「……僕がここに来るなんて、目的は一つしかないですよ。貴方だって、解りきっている事でしょう?」
やれやれ、と言わんばかりに面倒くさそうに男はそう言った。
沈夜辰と呼ばれた男は、尹馨とは深い関わりを持つ存在であった。
淡い思い出と苦い思い出、両方を持ち合わせるために、厄介なのだ。
「堂宇には近づいてはいないだろうな」
「冗談言わないで下さいよ。僕が一歩でもあそこに入れば、足先が溶けてなくなっちゃいますって」
沈夜辰は怪しい笑みを湛えたままで、横にゆらり、と体を揺らした。それをわざとらしく二回ほど繰り返した後、一歩を踏み出す。
尹馨の元へと、僅かに近づいた。
「……、……」
「怖いんですか?」
赤い目が、光ったように見えると感じた尹馨は、思わず一歩を下がってしまう。
それを見た沈夜辰はますます楽しそうにニヤリと笑って見せた。
「何を怖がるんです? 偉大なる尹公子がらしくもない」
「沈夜辰……」
「あはははっ……いや、失礼。変わりましたね、尹馨」
大袈裟に笑いつつ、彼は右手を口元へと持って行った。
そうして、僅かに何かを考える仕草を見せた後に、ゆらりと瞳を動かした。
尹馨はうまい言葉を選べず、答えられずにいる。
「あれっ、それ……何ですか? 前は持ってませんでしたよね」
「……!」
沈夜辰の視線の先には、尹馨の懐があった。衣の隙間から僅かに姿を見せている簪を、目に留めたのだ。
尹馨はそれを慌てて隠すようにして、懐の奥へと押し込もうとした。
――だが、沈夜辰がそれを許さなかった。
音もなく近づいてきた彼は、器用に左手を差し出し、尹馨の懐から簪を奪い取ったのだ。
「へーぇ、簪じゃないですか。まさか、情人でも出来ましたか?」
沈夜辰はそう言いながら、手にした簪を空へとかざした。
そうして、見覚えのある色合いに目を細める。
「……返してくれ」
尹馨が一歩を詰めよってくる。
先ほどは近づくことを嫌がった男が、と沈夜辰は心で思って、彼を哂った。
「この色、憶えてますよ。僕が昔、抉り取った目の色と同じだ」
「沈夜辰」
「ねぇ、そうでしょ? 水晶宮の巫覡の目。宝玉みたいな……綺麗な色」
シャラシャラ、と簪を揺らしながら沈夜辰がそう言う。
――尹馨は、瞠目する事しか出来ずに、言葉を失っていた。
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