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世界が滅びます
香水ならレモングラスがいい、と取り留めのないことを考えついてそのままびしょ濡れている。
絶対いい。
──絶対。
傘は破損した。水色の傘だから、しばらくすればやがて水に還るだろう。
なるべく現実から遠いことを考えていれば、現実を見ずに済む。泣いたりするのはもう面倒臭い。あれは結構体力を使う。
水はすでにじゅわじゅわと足首までも浸からせて、靴下にまで染みていた。無心である。
無心のはず、である。
水位はもう脛まで来た。
──知ってる? クラゲって痛覚がないんだって。
じゃあ、とわたしは思う。
そんなら実質、あれはただのゼリー寄せと同じじゃない。ただのゼリーに刺されたり、意思ある生き物のように動いたり、そんなものは全部こちらの勘違いなのだ。
だって痛みがないんだよ。痛くないのは生きていないのとおなじだよ。
だったら、そのゼリー寄せに勝手にレモングラスの香りを移してしまおうか。そうしたらとても素敵に決まっている。考えてみてもご覧よ。無色透明の形の定まらない無生物を捕まえて、無機的な水槽にインテリア然とした装飾としてリビングに置くの。近づくとレモングラスの香りがするの。いいでしょう。
四十日四十夜、降り濡つ。穏やかな降水だけれどさすがにこの日数続けば世界のほとんどが様変わりする。
目の前の白い壁に、珊瑚がひっついている。名もわからぬ海藻が揺れる。
──あのね。
なに、とわたしは言った。
いつの間にやら海中である。そしてわたしは鮫である。
──なんで現実から逃げるの。
逃げるってなに。
──逃げるの。
逃げてないし。
──痛みを感じぬように感じぬようにとしているのなら、あなたはあなたがさっき「生きていない」と切り捨てたクラゲと同じだよ。鮫ではない。あなたは
「うるさいな」
声は鰓から分散して思ったような音声にはならなかった。
わたしを揶揄ってくるのはいったい誰なんだ。お前は誰だ。わたしの何を、知っているというのか。
──会いたい人はいる?
問いかけの主は怯みもせずに問いをまた投げる。わたしも懲りずに少しだけ考えてみる。会いたい人。
いないな。
そのことに、ちょっとだけ救われる。
“世界が滅びます。世界が滅びます。各自衝撃に備えてください。ごきげんよう。”
ああ、でも虹が出ているからさ。世界は水害では滅びないよ。
──じゃあ、良かった。水死はえげつないものね。
駄目だよ。現実的なことを考えちゃあ。せっかくクラゲや、鮫や、レモングラスの夢を見ていたのに。
ゆっくり、ゆっくりだったね。何千年も掛かったね。
ふと考える。
日の光を浴びたクラゲは、虹のように七色に光るだろうか。
了
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