小説が書けなくなった

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 小説が書けない。少し前までは、不定期ながら、「あれを書きたい」「これを書きたい」という欲望が尽きず、手を動かしていないと気か狂ってしまいそうな気がしていたものだ。もちろん駄文である。いや、これは本当に思っていることではない。なんでも書き上げた時には、それが大傑作であるような気がしている。一向に増えない「いいね」の数を見つめながら、はてPRが下手くそだったかしら、投稿したタイミングが悪かったかしら、などと腕組みをしている。私は独りよがりな作風を気取るつもりはない。かといって多くの読書人に好まれそうなものを意図的に作成するといった高度なことをしているわけではない。そんなことができるほど私は器用でないし、作文行為に情熱を持っているわけでもない。ただ分かりやすいものが好きなだけだ。私の言う分かりやすいものとは、人に伝えるために手段を適切に選ばれたもののことである。意図するところが単純明快で、奥行きをあまり持たないこととは違うと思っている。あくまでも個人の考えだ。小説に意図するところなど必要ないと考える人もいるだろう。それでもやはり、おもしろいと思うことを分かりやすく書いているつもりの小説がウケないと多少はがっくりすることもある。  話を戻そう。小説が書けなくなったのだ。スランプ、という感じでもない。仕事ではないのだから。ゆえに、問題意識を持っているわけでもない。ただなんとなく、寂しい。腹を割って話せる友人などが少ない私は、言いたいことや考えたことなどを小説の中に鬱陶しく思われない程度に織り交ぜて日本語を綴っていくことが好きだった。書けなくなった今は、心のダムの放流口を塞がれたような感じである。  言いたいことはあるし、日々頭の中はどうでもいいような、どうでも良くないような、書き散らしたメモ程度の存在感で思考が渦巻いている。おはなしの筋立てだって、ぼんやりしていればいくつも思い浮かぶ。衝動がないのだ。気合いを入れないとお茶すら淹れられない、慢性的に怠惰で重たい体をパソコンに向かわせ、妄想と日本語の世界を下手な息継ぎをしながら泳ぐ、その行為を後押しする強烈な感情が今は湧いてこない。思い返してみる。その強烈な感情は、よいものではなかった。真面目に向き合うと、とてもだめだった。自分の腹の底に沈殿するドブ色の水溜りを、誰かに真上から見下ろされて嘲笑われているような感じがした。なお悲しいことに、その誰かとは私自身なのである。全ての内臓をぞうきんのように絞りあげられ、そこから滴るのはまた泥水。しかし、そのような醜い精神活動だけが私の小説創作を後押ししてくれた。わたしは自分の小説が好きだった。内臓から泥水を滴らせる自分も、自分を嘲笑う自分も好きだった。どこに行ってしまったのだろう。私の小説と、私の好きだった私は。  大学生の友人が2日後、誕生日を迎える。「また年取っちゃうな」と、まんざらでもなさそうな顔で笑っていた。今朝、国道沿いに藤の花が見えた。もうすぐ雨がやまない季節になる。それもきっとすぐ終わる。明日は晴れ、明後日も晴れ、その次はくもり。ミルクティーを飲み干して、グラスの中は氷水。
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