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2000年
ミレニアムイヤー。
この年に五島甫は、五島組の組長となった。
頬笑みの鬼神。
五島は、六代目政龍組の中でそう呼ばれていた。
一見すると、とても温厚な紳士で知的な雰囲気。
今年で46歳になるが、妻は22歳。
結婚した時、妻はまだ20歳だった。
五島も若い頃はそれでもやんちゃではあったが、今ではすっかり大人しくなり、妻一筋の愛妻家でもある。
五島が妻と出会ったのは、今から22年前だった。
激しく雨が降る嵐のような夜、大学病院に運ばれる若い男。
「アニキ………俺、死んじゃうすか?俺、コレの腹に、ガキが………おるのに」
言葉を発するのもやっとの状態。立てている小指は震えている。
「紀保!しっかりせぇよ!そうだよ!もうすぐガキが産まれるんだろ!くたばってる場合じゃねんだよ!」
病院に到着後、紀保は息を引き取った。
当時は抗争事件が頻繁に勃発し、それに便乗して、五代目政龍組組長の跡目争いで、次期組長候補である、五島の親父の誠竜会会長、飯塚鷹雄と、喜迅組の迅野組長との中は険悪を呈していた。
その争いで若い衆が犠牲になることも多々あり、紀保もそのひとりだった。
雨で視界が悪かった事もあったが、紀保は背後から近づく気配を感じず背中を刺されてしまう。
その刃先は、膵臓にまで到達していた。
「……………ナミちゃん」
大きな臨月の腹を抱えて五島の前に立つ紀保の妻は、気丈にも涙ひとつ溢さなかった。
「……………分かってるんです。いつかこう言う事が起こる世界だって。覚悟して、この人の子供、産みたいって思ってたし。五島さん。何から何まで、ありがとうございました」
ナミはそう言って頭を下げた。
五島は握り拳を握ったまま、慰めの言葉もかけてやれなかった。
悲しい雨は降り止むことを忘れて降り続き、葬儀が終わっても止むことはなかった。
それからしばらくしてナミは難産だったが女の子を産んだ。
名前は紀保の一字を取って紀恵と名付けられた。
ナミと紀恵が退院の日、五島も手伝いにやって来ていた。
「五島さん。あの人の代わりに色々本当にありがとうございました」
ナミはスヤスヤと眠る紀恵を胸に抱きしめている。
「いや。それよりこれからどうする?良かったら、紀恵がもう少し大きくなるまで俺のところこねぇか?ナミちゃんは俺にとって妹と一緒だし」
女手一つ。経済力もないナミは、五島の申し出に感謝をしながら受け入れた。
そのナミが、五島の元に紀恵を置いて男と一緒に家を出たのは、紀恵が3歳の時だった。
「おじちゃん。お母ちゃん、いつ帰ってくる?」
紀恵はよくそう五島に尋ねた。
「直ぐ戻る。紀恵はおじちゃんと待ってればいいんだよ」
五島が紀恵の面倒を見れない時は、五島の舎弟の信二が紀恵の子守もしてくれた。
「いつもすまねーな」
五島がそう言うと、信二は紀恵に馬をやらされながらも笑っている。
「大丈夫っす!俺、妹や弟多かったし!紀恵ちゃん、良い子だし」
その妹や弟は、信二と血が繋がっていたり、繋がっていなかったり。
信二も不幸な生い立ちだったのは、五島もよく分かっている。
そして、五島が今1番信頼してるのも信二だった。
紀恵は五島の元で、帰らぬ母を14年待った。
高校3年の紀恵は、五島が進める大学も短大も専門学校も行かないと突っぱねた。
「どうして!進学する金なら心配しなくて良いって言っただろうが!」
「良いの!もうおじさんに苦労かけたくないもん!」
「ガキが生言ってんじゃねぇ!俺が稼いでることぐらい知ってんだろ!」
この頃、五島はもう飯塚鷹雄の片腕と呼ばれていた。
「……………お父さんのお墓だっておじさんが………甫さんが買ってくれたじゃない!」
紀恵から名前を呼ばれて五島は固まる。
「私は、甫さんのお嫁さんになりたい!甫さんを見取る覚悟はできてる!」
そう言う紀恵が、ナミとダブった。
覚悟を決めて紀保の子を、紀恵を産んだナミと。
「……………いつから、俺の気持ちに気づいていた。俺が、お前を女として見ていたことを」
恥ずかしそうに五島は言う。
「……………甫さんの気持ちなんて気付いてなんかいない。私がずっと甫さんが好きだったんだよ。お母さんを恨まないで生きてこられたのも、甫さんのおかげだもん」
紀恵の言葉を聞いて、五島はその夜、紀恵を抱いた。
紀保とナミに、紀恵を生涯愛し、幸せにすると誓いながら。
紀恵が20歳の誕生日、五島は紀恵と入籍した。
紀恵がふたりだけで教会で式をあげたいと言うので、紀恵は純白のウエディングドレスを身に纏った。
虫の知らせだったのか、紀恵の戸籍が結婚で抜けたのを知ったナミが、17年ぶりに五島に連絡をして来た。
その日は朝から、紀保が死んだ日のような嵐の日だった。
紀恵には合わせる顔がないと、どうしてもふたりきりで会いたいと、五島はナミに呼び出され東京駅近くの喫茶店で待ち合わせをした。
「お久しぶりです。長いこと紀恵を預けたまま、好き勝手してごめんなさい」
目の前にいるナミは、それなりの歳を重ねていた。
それでも一緒にいる男のおかげか、悲壮感はなかった。
「…………幸せなら良いさ。俺もナミちゃんに謝らないとな。ナミちゃんに黙って紀恵と入籍した」
五島が頭を下げると、ナミは首を振った。
「良いんです。私が逃げたんだから。五島さんから逃げたんです」
ナミの告白に五島は驚いて顔を上げた。
「俺から逃げるって?ヤクザな俺が嫌だったのか?だったら、なぜ、紀恵まで置いて」
「私ね、五島さんが好きだった。でも、五島さんは私を妹としか見てくれなかった。辛かった。紀恵を置いて出て行ってごめんなさい。ごめんなさい!」
五島の言葉をナミは遮り本心を吐露した。
自分のせいで、ナミは紀恵を捨てたのかと思うと、五島は頭の中が真っ白になった。
「…………元々、あの人の兄貴分だった五島さんに憧れを持ってました。あの人も私が五島さんを褒めるとすごく嬉しそうにしてた。あの人にとっても五島さんは特別だった」
ナミの言葉を五島は黙って聞いた。
「一緒に住むようになって、心のどこかで期待してた。妹から、五島さんの妻になれるんじゃないかって。でも、五島さんたら、女遊び派手なんだもん」
恨めしそうにナミは言う。
五島は恥ずかしくて返す言葉がない。
「…………どんなに一緒にいても私は妹のような存在。女に見られる事もない。そんな時、あの子が、紀恵がすごく泣いたの。癇癪を起こして。私はもう耐えられなかった。五島さんに愛されもせず、紀恵を育てていくのが苦しくて、苦しくて。あの当時パートをしていた先の男性にずっと口説かれてた。一緒に住もうって言われて私は逃げた。五島さんからも紀恵からも」
ナミは告白を終えると口を閉じた。
「…………ごめん。ナミちゃんは紀保の嫁だ。紀保が死んだとしても、俺の中では紀保の物だった。一緒に住もうなんて、軽々しく言ってしまって済まなかった」
五島は再び頭を下げた。
自分が1番可愛がっていた弟分の妻の気持ちには、今思ってもどうしても応えられなかった。知っていたとしても応えてはいけないと思った。
紀保の墓を買ったのも、紀保への贖罪だった。
いつまでもずっと小さな仏壇の横に、紀保の遺骨を置いてしまっていた事。
自分がいながら、ナミが紀恵を置いて出て行ってしまった事。
そして、いつしか紀恵を女として愛してしまった事。
「紀恵に会ってくれないか?紀恵の花嫁姿の写真だけでも、ナミちゃんと一緒に撮り直したいんだ。どうしてもダメか?紀恵はナミちゃんを恨んでないよ!」
五島の申し出に、ナミは両手で顔を押さえて泣きじゃくる。
「もし、紀恵が許してくれるなら。会わせてください。お願いします!」
その日は穏やかな朝だった。
五島は乳を飲ます紀恵と我が子、蒼甫を見つめた。
「ミレニアムベビーか。ギリギリ間に合ったな」
優しい目で五島はその姿を見ながら言う。
「ふふふ。パパにはこれからも、まだまだ頑張って元気でいてもらわないとねー」
紀恵はそう言って、蒼甫の柔らかなほっぺに触れる。
「もちろんだよ。これからも、紀恵と蒼甫のために頑張るさ!って、蒼甫が20歳の時は、俺、66か。やれやれ」
五島はそう言って笑う。
「その時、私達どうなってるかしら?今と同じ、幸せだったら嬉しいな」
紀恵はにっこり微笑む。
「幸せだよ。絶対、幸せにしてる」
五島はそう言うと紀恵にキスをした。
触れ合う数だけ、幸せが続くと思った。
「………雨だわ。今夜、雪になるのかしら?」
窓から見える降り注ぐ雨を見ながら紀恵は言う。
「暖かいから雪にはならないかもな。でも、止みそうにないな」
五島はそう言うと、我が子のゲップを出す。
「上手、上手」
紀恵が言うと五島は照れる。
電話がかかって来て紀恵が出る。
「分かったわ。待ってて」
紀恵は電話を切ると五島を見る。
「ナミちゃんか?」
蒼甫をあやす五島。
「ええ。降ると思わなかったから傘を持ってないんですって。駅まで誰かに迎えに出てもらって良い?」
紀恵が言うと五島は若衆に駅までナミを迎えに行かせる。
「なぁ、紀恵」
スヤスヤとベビーベッドで眠る蒼甫を、愛おしく見つめる紀恵に五島は声をかける。
「なぁに?」
笑顔で五島を見つめる紀恵。
その風景を、満足そうに五島は見つめる。
この幸せが永遠につづくように。
見守ってくれよ、紀保。
そして、2020年。
五島は今でも妻、紀恵とラブラブだ。
ふたりの愛息子の蒼甫は、高校卒業後アメリカの大学へ留学中。
雨が降るたび辛い過去は、優しい雨が流してくれるようだった。
五島甫
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