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それでも、お母様にちゃんと教えられた通りに返事をしたと思います。口元に微笑を湛え、落ち着いた顔で応えられたと思います。蝉の鳴き声が五月蝿いなと心で思い、お母様が私に教えた顔でちゃんと答えられたと思います。
どんな時でも女の子は笑いなさい。という教えの通りに。
「千代、吉井君のところにお嫁にいきなさい。」
「はい、わかりました。お父様。」
私の胸の中に、昔見たシャンソンの女の姿が思い浮かびました。蝉の声でお父様の声はかき消され、もうこれ以上そのことを考えたくありませんでした。鮮明に浮かぶシャンソンの女が私に歌い掛けるので、そのことだけに想いを馳せたのです。
紫陽花の庭から見えた、シャンソンの女と青い目をした異人の男の姿。
あの光景は、私とお姉さまの一生の秘密です。誰にも言ってはいません。多分、先にお嫁にいったお姉さまも胸にしまってらっしゃると思います。
それほどおぼこい私の心に激しく強烈に埋め込まれるほど、はしたなくも美しく初めて知る世界だったのです。ただ、これは誰にも言ってはいけないということだけは、幼いなりに分かりました。私たちが気軽に口にしてはいけない秘め事なのだと。
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