雨空にシャンソン

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 お母様の言いつけどおり家を出て港まで行くのですが、その道のりの間、雨の中のお母様が頭から離れませんでした。あの時の私の心境を言葉で表すのだとすれば、心ここにあらずのような気持ちだったと思います。  お気に入りの紅い蛇の目の傘にポツポツと音がして、その音の中にお母様が溶け込んでいるみたいに胸の中に広がるのです。それでもいくら私が雨の中に身を置いても、お母様のように雨は私を優しく包むことはないのだということが痛いほどわかりました。  私はなぜかそわそわして、左手に持った少し大きい黒い傘の柄をぎゅっと握ったのです。ぎゅっと握る掌に全ての私の気持ちは集中して、行き場のないどこから沸いてくるかも分からない熱いものが、握った柄と掌の間で強く出てくるのです。  吉井さんの居られる港の方に向きません。足は一歩一歩進むのに心は動いていきません。こんなことは初めてです。  脳裏にはお父様のお顔が浮び、お父様の言葉を遮った蝉の鳴き声が激しく聞こえ、蝉の声は私の心を揺さぶり追い詰めます。あまりの五月蝿さに遂に私の身体は、大きな木の下に逃げ込んだのでした。  青々とした葉の茂る下に逃げ込むと、不思議なことに心に鳴り響いた蝉の鳴き声がぴたりととまりました。私はやっと安心して息が出来る心地になりました。それでもドクドクとする動悸がこれは嘘ではなく現実だと言っているようでした。
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