雨空にシャンソン

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 急に怖くなりました。  これから先、何が待ち受けているのか想像するだけで怖くて仕方ありませんでした。  私はちゃんと気付いていたのです。  心がいくらお父様の言葉に耳を塞いでも、避けられない現実が迫ってきていることを。重たく圧し掛かる黒い蛇の目の傘の存在が、一歩一歩近づいて来ていることを。  そして全てから逃げるように、シャンソンの女の影が胸に広がったのでした。  惜しげもなく投げ出した白い足。青い目の異国の殿方は優しい歌声に包まれながら彼女を見つめている。歌の意味は分からなくとも「愛の賛歌」は私の胸に深く刻まれ、シャンソンの女の歌声は次から次へと溢れて来ます。  止められませんでした。自由に心を剥き出しにした彼女の歌声が、私の身体を駆け巡り押さえ切れないほどに溢れ、遂に、禁じられたあの歌が自然と私の鼻から零れたのです。ポロポロと零れだし、あの旋律は私の周りをあっという間に取り囲みました。    異国の言葉は話せません。でもあの旋律は、幾度も幾度も口には出さずとも頭の中で流れていて忘れることなどで来ませんでした。  雨の調べにのせて愛の旋律はか細く、それでも自由に流れて泳いでいくようでした。  鼻歌が震えていつの間にか自分が泣いていることに気付いても、自由に一度出てしまった歌は止まりません。一度やめてしまったら、元の世界に戻ることを知っているのです。 「...その歌」  知らない女の人の声でした。私は泣いてしまってもやめなかった鼻歌を、心臓が驚くぐらい飛び跳ねたと同時に容易く止めてしまいました。  自分に夢中で、こんなに近くに人が居ることすら気付けませんでした。気が動転し身体中から恥かしさのあまり湯気が出るほどの熱が襲って、思わず手に持っていた黒い傘を、私は落としてしまいました。
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