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* * *
貴方は知らないでしょう?
みんなが寝静まったあと、静かに、極力音を立てないよう起きてきて家事をしていること。
もちろんリビングの電気はつけずに。
キッチンのちいさな蛍光灯だけをつけて。
2LDKの賃貸の我が家では、リビングは寝室と地続きになっているから。
お皿を洗う際も、水量を絞る。
スポンジはなるたけやわらかいものを使う。
フライパンなどの大型調理器具は、底にしっかりと水を張って洗剤を一滴垂らし、数分してから撫でるように洗う。
洗濯機を回す際は、風呂場の扉を閉める。
脱水時間を少しだけ短くする。
お風呂場の換気扇は『強』から『弱』に変える。
貴方は知らないでしょう?
たまに早く帰ってきてくれたとき、できるだけゆっくり眠れるように、と、わたしがこうして心を砕いていること。
どうしてここまでするんだろう、と涙が出るときもある。
だけど、いつも同じ答えにたどり着くの。
『どうしようもなく、貴方がいとおしいから』
☆ ☆ ☆
君は知らないだろう。
みんなが寝静まった後、こっそりとできるだけ音を立てずに部屋を出ていく君をうっすら目を開けて、ぼくが見ていること。
いつかバレちゃうかもなぁ。もうバレてもいいかなぁ。てか手伝おうかなぁ。いいから寝ててとか言われるかなぁ。などと思いながら、そわそわどきどき。しんとした部屋に流れる滑らかな水の音や、控えめな電子音を聞いていること。
そして、当たり前のようにリビングの電気をつけない姿に「変わらないな」と、頬を赤らめていること。
君は知らないだろう。
それこそが、きみを選んだ理由そのものだということを。
☆ ☆ ☆
当時、ぼくは会社の独身寮に住んでいた。
隣の県に住んでいたきみは、休みの前日になると、電車に揺られてぼくの家に来てくれた。
当時のぼくは、今よりもずっと仕事が立て込んでいて、なかなか家に帰れなかった。
うっすら空が白んでいる時刻に帰宅なんてのも、ざらにあった。
そんなときでも、きみはごはんを作ってくれていた。
シンク横のちいさな調理スペースの上には、きみが作ってくれたスープの入った小鍋やラップのかかっただし巻き玉子が置いてあった。
軽くシャワーを浴びて、折り畳み机を出し、眠っているきみに当たらないように置くと、おでこにキスをした。
電子レンジで温めただし巻き玉子はいつも、しょう油が少し焦げた香ばしいかおりを漂わせていたし、透き通ったあめ色のスープには、とろとろの玉ねぎが大きめに切ったにんじんとじゃがいもの上に、ふんわりと乗っかっていた。
食べ終えたあとも、ぼくはきみのおでこにキスをした。
きみは、ううんと唸ると、布団をかけ直し、ごろんと転がってぼくに背を向けた。
そんなきみの様子を見ると、そんなきみの作ってくれたごはんを食べると、どんなに疲れていても、元気でいられる。そう確信していた。
「自慢の彼女だな」
きみの後ろ姿を見ながら、いつもそう思っていた。
「彼女」だと、それでいいと、あの時はまだ思っていた。
ぼくの中に、変化が訪れたのは、あの日。
忘れもしない。
ぼくは珍しく帰宅が早くて、午後8時過ぎには家に着いていた。
料理は苦手なほうではないけれど、何もする気力が起きなくて、かろうじてシャワーだけを浴びて、眠りについた。
携帯電話が暗闇のなかで、明滅していた。
思考回路の片隅で「そういえば今日はきみが来る日だな」とは、思ったが、睡魔には抗えなかった。
――
―――
――――
ガチャン。パタン。キィーーー……。
当時のぼくの家の玄関扉は、こざるの鳴き声のような音がした。
ネジ穴に油を差し込まないと、と思っていながら長らく放置していたので、その頃はもうボスざるだったかもしれない。
とにもかくにも、扉が開いた。
あ、きみが来た。と思った。
思ったけれど、体が動いてくれなかった。
いまぼくがいるここは、実は布団ではなくて、湿地帯の底なし沼なのかもしれないと思うほどに、動かなかった。
『やぁ。今日は遅かったね。お疲れ様』
『今日もかわいいね。お疲れ様』
『今日はごはんは大丈夫だよ。いつもありがとう。お疲れ様』
心のなかで、ひっきりなしにきみにそう声をかけながら、目を瞑っていた。
きみの気配が近づいてくる。
びっくりするくらい音を立てずに。
やわらかくてあまいにおいを連れて。
そっとぼくの前に膝を折った。
「うん、寝てる」
ぽつりと米粒の中に収まりそうな声でつぶやくと、きみはその体勢のまま、しばらくじっとしていた。
やがてきみは、そっと立ち上がると、部屋を出ていった。
シャワーの音が聞こえてくる。
結局、あの日きみが、眠っているぼくがいるリビングの(独身寮は1DKだったからリビングと呼んでいいのか迷うけれど)明かりをつけることは、なかった。
きみが隣の布団に潜り込んだ頃には、ぼくは、もはや起きていた。
どきどきが止まらなくて。
きみは、眠っているぼくを気遣って、最後まで電気をつけなかった。
暗闇で着替えて。
暗闇で布団を敷いて。(途中「いてっ」とか言ってたっけ)
暗闇に溶けるように横になったきみに、
「彼女」じゃなくて、ずっとずっとこの先も一緒にいたいという気持ちが初めて芽生えた夜だったことを。
『どうしようもなく、貴女がいとおしい』
と思ったことを、
きみは知らない。
知らなくて、いい。
* * *
突然、目の前が明るくなった。
リビングの電気がついたんだ、と気づくのに少しだけ時間がかかった。
パタ、とスリッパが床をやわらかく叩く音が聞こえる。
リビングに貴方が立っていた。
「え。うそ。 ごめん。起こしちゃった?」
慌てて、蛇口をひねる。
キュイっというげっ歯類の鳴き声のような音を立てて、水は止まった。
LED照明の下で、貴方が笑うのが見えた。
「? 何か、おかしい?」
仕事から帰ってきてご飯作り。子供たちを食べさせて風呂に入れ、諸々終わらせてからの寝かしつけ。その後、そっと起きてきて家事の一切をやっている妻を笑うというのか。
わたしは少しムッとして、わざと険のある言い方をした。
貴方はかぶりを振る。
「ちがうちがう。変わらないなぁと、思っただけ」
言いながら貴方は、こちらに歩みを進めてきた。
変わらない? 変わらないって、いったいどういう意味だろう。
わたしは、まばたきを繰り返す。
小首を傾げて、言葉の意味を考えていると、貴方がとなりに立った。
「手伝うよ」
「へ? え、あ、うん」
呆気にとられているわたしを放って、貴方はシンクの底からフライパンをつかみあげた。
「ねぇ、変わらないって、どういう」
「いつも、ほんとうありがとう」
「は?!」
急にどうしたの?
返そうとしたわたしの口を、貴方の唇がやさしく塞ぐ。
咄嗟に目を瞑り、言葉を呑み込んだけれど。
あれ? これってもしかしなくても、誤魔化されていない?
まぁいいや。何もかもを話すのが夫婦ってわけじゃないだろうし。
これでじゅうぶん、気持ちは伝わるし。
そういえば、昔、独身寮にまだいたとき、寝ている(フリをしていた)わたしのおでこに、そっと口付けてくれたよね。
貴方は知らないだろうけれど、わたし、ほんとうは心臓がどきどきして、キュンとなって、今にも目を開けてしまいそうだったんだ。
だけど、わたしが起きたらご飯食べる邪魔になるだろうなぁって、必死でタヌキになっていた。
貴方は知らない。
知らなくて、いい。
もしかして、貴方にも、わたしにまつわるそんな秘密があるのかしら。
なんてことを思い出しながら、くすりと微笑むと、わたしは貴方の首に腕を回した。
「こちらこそ、ありがとう。お疲れ様」
~ふたりの甘いひみつは、これからも続く~
【fin】
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