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その頃はコロナが発生する前で彼女は目を閉じると、必ず彼女の頭は妄想が作り出したあらゆる笑顔で埋め尽くされた大宇宙に支配されるのだった。
客の女を煽てて化粧品を売りつけるBAの笑顔。男を跨ぐときに恥じらう尻軽女の笑顔。孫に看取られて死んでいく老人の笑顔。乗馬して怖くて引きつった素人の笑顔。世間体をよくしようと努める町内会員の笑顔。マンボウの肉のようにぶよぶよした締まりのない太っちょの笑顔。負けん気を起こして無理に作ったホームレスの笑顔。着飾ってハイテンションになった主婦の笑顔。泣きながら生まれて来た赤子のしわしわの笑顔。通勤ラッシュで疲れ切ったサラリーマンの苦し紛れの笑顔。金の為なのにお客様の為と言い張る店主の笑顔。清流の浅瀬に浸かって心地よさそうな修験者の笑顔。スリムパンツを履いてイケてると自惚れる若者の笑顔。今まで蟹股だったのが内股になって喜ぶ少女の笑顔。親切を装う隣人のお為ごかしの笑顔。濡れ手で粟で懐が温かくなったニートの笑顔。リップサービスをして心中で嘲る阿婆擦れ女の笑顔。仕事から帰って服を脱いで涼んでいる汗ばんだ労働者の笑顔。良心の呵責に苦しむ風俗嬢を馬鹿にする同業者の笑顔。周囲の視線を意識して楽しそうにする見栄っ張りの笑顔。腹を割って話し合い真に喜び合う友達同士の希少な笑顔。空気を読んで便宜的に言い合い表面的に喜び合う同調者同士の有り触れた笑顔。歯の浮くような綺麗事を平気で言う偽善者の笑顔。綺麗事を真に受けて素敵と感激する女の笑顔。バーで男を振る女の得意げな笑顔。知らぬが仏でのうのうと生きている阿呆の笑顔。通販番組で言葉巧みにセールストークする出演者の笑顔。悲観してもしょうがないと楽観する無理矢理な笑顔。真に楽天家の能天気な笑顔。笑顔でしか人間関係を保てない軽薄者のへらへらした笑顔。愛想笑い、追従笑いが得意な腰巾着の笑顔。中身を見抜けず上辺の明るさを重視する典型的な俗物の笑顔。目糞鼻糞を笑うで自分の馬鹿さ加減に気づかず馬鹿を罵る馬鹿の笑顔。食言して公約を反故にする政治家の笑顔。それからコメンテーターの笑顔。お笑いタレントの笑顔。詐欺師の笑顔。スポーツ選手の笑顔。セレブの笑顔。女子アナの笑顔。子供の笑顔。すべての笑顔。中でも彼女の夫の笑顔。
顔面神経痛を患い、とうとう顔面神経麻痺になって笑えなくなった彼女の顔面がこれらの笑顔の幻影を病床で見させたのだ。そして自分から笑顔を奪おうとするモンスターと取り合い獲得できない自分を嘲笑う笑顔の虫が彼女の体中を這いまわる夢に魘されたりする。そんな日々の中で明るい笑顔を眺める為に作られたようなカフェテラスを恋しがっていたのだ。
まず第一に人々の健康的な笑顔を見て元気をもらいたかった。
「笑顔を奪われて初めて春の真価が分かったわ。何が何でも春が来るまでに退院してあのカフェテラスに行きたいわ!」
赤紫の萩の花を見ながら彼女は夫に吐露したのだった。
「よく考えたら一年中で一番明るいのは春よ。誰しも健康的な笑顔を振りまきながら街を出歩くもの。パープルのライラックが咲く頃に退院しなきゃね。」
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