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至理1 男と女の違い
○素女経 至理1
黃帝は素女に問うて曰く:「吾が氣の衰え和せずば、心內は樂しまず、身にては常に危を恐る、將に之に如かんとせるは何ぞや?」と。素女は曰く:「凡そ人の以て衰微せる所、皆な陰陽交接の道にて傷せるのみ。夫れ女の男に勝りたるは、猶お水の火を滅せるがごとし。知りて之を行わば、鼎の釜にて能く五味を和せるが如くせば、以て羹臛を成さん。陰陽の道を知る能わば、悉く五樂は成らん。之を知らざらば、身命は將に夭せんとせば、何ぞ歡樂を得たらんか? 慎しまざるべきかな!
生命力の減退は、ひとえに
「セックスが下手」だからである。
男女の関係をものに例えれば、
女は水であり、男は火である。
水は徐々に温まるが、
一度熱されたらなかなか冷めぬ。
対して火は、ひとたび燃えれば、
即熱くなる。しかしながら、
消えてしまえば、終いであろう。
まして、火に水を掛ければ消える。
そこを踏まえられぬのであれば、
下手くそ、と申すより他あるまい。
以下のごとく考えるべきである。
釜にて五つの味を混ぜ合わせ、
スープに仕立てる。
男が火であるならば、
セックスの技術は釜である。
釜にて、女という水を熱し、
極上のスープを生み出す。
これが、セックスの要諦となる。
ここがうまく機能せば、
あらゆるものに楽しみを見出だせ、
生活に張りももたらされよう。
そこを上手く機能できねば、
身命そのものを損ないかねぬ。
そのような状態で、何を楽しめようか?
気ままに射精すれば、
健康を損ねる。自明の理である。
みだりな射精は、慎むべきなのである。
○カーマ・スートラ2-1
セックスの終端は、
男が射精によって終わるのに対し、
女の快感には射精のような
わかりやすいものはない。
両者ともに快感の獲得という目的は
同一であるにかかわらず、である。
ここには、ひとえに性器の形状による
役割の違いが大きい、と言わざるを得ぬ。
何と言っても男は能動者であり、
女は受動者である。
男は情欲について激烈な亢進を得、
しかし、その持続時間は短い。
女は、その逆となる。
そのため、通常で考えれば、
女が快楽の原料を失うまでに、
どうしても男が先に
快楽の原料を失いがちとなるのである。
○崔浩先生、曰く
男と女の違い、となるであろうか。
カーマ・スートラは、セックスをなす両者の
「性器サイズ」「性欲持続」「性欲強弱」
の兼ね合いからのすり合わせを求める。
これは素女経には存在せぬ観点である。
というのも、素女経はその観点を
ほぼインサートにのみ集約しておるが、
カーマ・スートラは前戯から
両者の振る舞うべき手法を説く。
これはよりよいセックスの考え方が、
素女経が「健康」を目的とするのに対し、
カーマ・スートラはセックスそのものの
心地良さに求める所にあろう。
両者の見るべき先が違う以上、
両者の接合点は、存外多からぬ。
それでも、両者の観点は一致している。
「射精で男は終わるから、
だいたい女は不満足である」
という一点である。
まったく、
男女の性欲差は実に難儀なものである。
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