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眩しい光の中で男は目を開けた。一瞬ここは天国かなと男は思う。
「苦しむ事なく一瞬でここまで来れたのだ。俺はきっと運がいい方だ。あるいは俺はまだあいつの腹の中にいるのだろうか?俺はあいつに闇の部分まで溶かし込まれて、やつの栄養分になるんだ。俺を摂り込んで、シルバーバックはさらに大きくなる。それって悪くない人生の終わらせ方じゃないか?」
男は再び目を瞑る。
しかしいくら待っても何も起こらない。痛みも何も感じないし、日の光で暖められて、部屋が暑苦しくなってきた。目を瞑り何もしないこの状況に飽きてきた。
男のめちゃくちゃな考えは意識にのぼり、だんだん頭がさえて思考がはっきりしてくる。目の焦点が合うと、目の前に懐かしく見慣れた風景が現れた。
そこは男の住むアパートだった。相変わらず古いが、天井も落ちていないし床が朽ち果ててもいない。今までと何も変わらない、静かな昼下がりの退屈な我が家だった。
よく見慣れた風景なのに、その眩しさに不思議と違和感を感じる。男は完全に目を覚ました。シルバーバックの姿はどこにも無かった。
それからの1ヶ月間、男はいつも通りの生活を送りながら繰り返しあの夜の崩れた町でのことを思い出した。その間に酒はすっかりやめしまった。今は外で他人と嗜む程度だ。
どこまでが夢だったのだろう?鎮守の森に一緒に行った元隣人は、今どこかで元気にしているのだろうか?会いに行って確かめようとも考えた。大家に隣人の行き先を尋ねることも出来たが、結局やめておいた。もし夢として全て忘れていたなら、きっとその方が彼にとって幸いだろう。
あれから男の周囲もガラリと変わってしまった。これは気持ちの問題なのだが、あの夜以降この世界が明るく輝いて見えるようになったのだ。その変化は主観的なものだろう。男と現実世界の住民との関係性がなんら変わってはいないからだ。なんというか、男には世界が以前よりも明るく見えていた。光の強度だけではない。職場の同僚とは心から談笑するようになり、上司には信頼を寄せて尊敬出来るようになった。よく笑う生活を続けているうちに、なんと自分に好意を寄せてくれる女性まで現れた。
「どうせなら、私と一緒に住んでみませんか?」
冗談めかしたふりをして、彼女は男にこんなことを言った。
男は先週、ついに引っ越し先を見つけて来た。彼女が本当に押しかけてきてもいいように、広めの新しい部屋を決めてきた。
彼女のために引っ越しを決意したかって?いいやそうじゃない。そして、この部屋に恐怖を感じているからでもない。俺はこの部屋に住み続けることが、もう耐えられなくなったのだ。
家に帰るたびに、あいつが元いた場所にその姿を探してしまう。あの夜のあと、俺は鎮守の森を訪れ、あいつに再び会えるようにと願掛けをした。牡丹の木はどこにもなかった。部屋に帰ってシルバーバックがいないことに落胆する。そんな自分には、もう耐えられないのだ。シルバーバックのいないこの部屋にひとりでいることが堪え難かった。
男はその日、ポリ袋を片手に帰宅した。仕事は少し早めに切り上げた。彼女からのお誘いもあったのだが、今日は理由をつけて断った。今日であの日からちょうど1ヶ月になる。
男は読みかけの先月の雑誌のページをめくる。そこに挟んだはずのあいつの毛はやはりどこにも見つけられなかった。窓を開けて外の様子を伺う。今日は満月だ。あの日と同じように雲ひとつなく、美しい月が窓の外で光っている。ドアを開けて廊下に出て、階段を降りてからアパートに振り返る。そこにあるのはちょっとくたびれて古いアパート。目の前の戸建ての屋根にはテラコッタの屋根瓦が光っているし、ビルの一階に設置されたスーパーは人の出入りで賑わっていた。それはいつもと何も変わらない風景だった。男は、改めて自分の暮らす世界にかえってきたことを実感した。
男は再び部屋に戻り、茶碗とコップを用意すると、ポリ袋から2本のアルコールを取り出した。酒を買うのは久々だった。だが別に、酔いたいわけではない。茶碗とコップに並々とアルコールを注いで、男はコップの方を片手にチビチビと味わうように舐め始めた。茶碗に注いだ分はもちろんそのままで減ることはない。コップに酒を注ぎ足しながら、男はこみ上げるものをなんとかこらえる。こんな思いで生活し続けることは、もう終わりにしないといけない。
信じてもらえるだろうか?俺はシルバーバックに会いたくてたまらないのだ。あいつと似た毛むくじゃらの塊に興味があるんじゃない。今度こそあの変な生き物を捕まえて誰かに見せびらかしたいとかそうことを考えている訳じゃない。
今になってシルバーバックに感じるのは、恐怖よりも畏敬の念が勝っている。あいつは俺にとって、特別な存在なんだ。変な話、あいつに再び喰われて取り込まれてしまっても構わないとすら思っている。その巨体を抱え込むようにして頬擦りして親しみと尊敬の想いを伝えたい。あいつはどうしてか俺を元の世界へと帰してくれたのだ。俺が形を失うその前に。
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