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鎮守の森
新しいものほど古びているこの荒れ果てた世界でまともな場所があるのだとしたら、それは近隣で一番由緒ある場所「鎮守の森」に違いない。神社は人々の祈りの場でもある。そこに人が集まるのは自然なことだし、うまくいけば元の人間界に戻れるかも知れない。
男はそんなことを考えながら、隣人と一緒に森を目指して走った。石段の下で息が切れる、もう走れない。鳥居は石段の上にあり、本殿は更にその奥にある。月明かりにさらに目が慣れると森の周りには毛むくじゃらの塊がそこかしこに潜んでいることに気づいた。小さなものから猫ぐらいの大きさのものまで、ひしめき合ってうごめいている。隣人は塊に石を投げつける。2人して大きな枝で塊を払い除けながら道を作った。塊は高く薙ぎ払われるたびに高い音を出す。音を発した塊はより巨大な塊に捕らえられては飲み込まれていき、2人してその共食いシーンを見守った。それはまるで、ガラス板で隔たれた水槽の向こうの世界の風景のように思えた。塊がこちらに攻撃を仕掛けてくることはなかった。どうゆう訳だが、向こうからは男たちが見えないようなのだ。
隣人は若くて体力があるのだろう。自分を置いてさっさと階段を登ってしまう。男は遅れてなんとか鳥居までたどり着き、安堵のため息をついた。そこにあるのは、男が知る森そのままだった。知っている社と何も変わるところがない。先にたどり着いた隣人がチラリとこちらを振り返る。だがその向こうで光っているのは意外なものだった。
灯は本殿の中から漏れる光ではなかった。そこは牡丹の花がいくつも咲き誇る大木で、人の顔ほどもある白い大輪ひとつひとつが光を放っているのだ。
本殿の方はひっそりと静まりかえり、人のいる気配はどこにも無い。だが、「この風景は一度見たことがある。」と、男は思った。
隣人の様子にチラリと目をやる。思い当たる節がある。きっと隣人は今現在の彼の姿ではない。ここにいるのは最後に会った、つまり一年前の彼の姿だ。着ている服も雰囲気も見覚えているそれと同じだし、男を見るその目の焦点が今はもう合っていないのだ。隣人が奇声を発していたあの夜のように。
光る牡丹は花弁から芳香を放ちながら蜜を滴らせている。元隣人は振り返ると、牡丹に歩み寄り、その大輪を抱えるように両手で持って花弁ごと蜜をピチャピチャと舐め始めた。
「おい、何をしているんだ。」男は叫んだ。隣人に男の声は届かない。
「そんな得体の知らないものを口にしてはダメだ。」男は隣人と自分自身に言い聞かせるように言った。飲むのをやめさせようと彼の後を追いかける。途端に酔うように甘い香りに包まれて目眩がした。気がつけば男も牡丹の花を手に取ってその香りを芳いでいる。走り続けて喉がカラカラなのは自分も同じだ。男はそのまま花に顔を近づけると、隣人と同じように蜜を舐めはじめた。香りが痺れるように全身をみたし、爽やかな味は心まで満たしくれる。二人は我を忘れて満足するまで蜜をすすり続けた。
ふと足元を見ると、さっきまで無かったはずの毛の塊がいくつも落ちている。さっきまで大人しく自ら動かなかった塊は、「カリガリ」と嫌な音を立てて1匹また1匹と集まっては、2人に近寄りつつあった。
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