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帰還
さっきまで蜜を舐めていた隣人は突然叫び声をあげた。毛の塊が隣人の足に噛み付いたのだ。隣人はその塊を蹴飛ばしたが、今度は別の毛の塊が威嚇しながら隣人に襲い掛かろうとしていた。毛の塊は仲間の数を増し、低い音を出しながら執拗に体当たりしては隣人にまとわりつく。そして、攻撃は男にも向けられていた。先ほどとは違い、今の奴らには俺たち二人が「見えている」のだ。俺たちは今やこちらの世界に入り込んでしまっていたらしかった。アウェイな状態である。奴らの食べ物を口にしたせいかも知れない。この世界で繰り広げられる光景は、もう水槽の向こう側の世界ではなくなっていた。この世界は奴らのテリトリーなのだ。そこは喰うか喰われるれるかの世界であり、俺たちは捕食対象かもしれないのだ。
「アパートまで走れ。走って帰るんだ!」俺は隣人に向かって叫んだ。言うが早いが、隣人は走り出し、俺は全速力で後を追う。
道の途中、瓦礫に埋もれていた塊は1匹また1匹とこちらの存在に気づき、数を増してゆっくりとそして確実に追ってきた。襲われた足や腕の傷がキリキリと疼く。痛みよりも恐怖がまさっていて、火事場の馬鹿力でひたすら走り続けた。巨大な塊の横を素早く通り越し、小さなものは蹴飛ばしてアパートまでの道のりを急ぐ。アパートが安全という保証はどこにもなかった。しかし、2人とも正気を失っていて、他に行くあても無い。月明かりに照らされてアパートが見えてきた。一つだけ希望がある。隣人は一年前、ここからアパートを通って元の世界に戻った可能性があるのだ。
二人してアパートの前にたどり着いた。隣人は「助けてくれ、うわー」と叫びながら俺の隣の部屋、つまり元隣人の部屋の扉を開けた。俺は少しだけ出遅れた。無情にも俺の前で、その扉がバタンと閉じた。
「なんてことだ、開けてくれ。」ドアのノブを回すが、扉はびくとも開かない。トアを挟んだ向こう側で、隣人が叫ぶ声が聞こえた。
「あの野郎、ぶっ殺してやる。」扉の向こうで人の気配がふっと消えた。俺は膝をつく。隣人はひとり元の世界へと帰ってしまった。きっと一年前のあの時の世界にだ。俺はこの世界で、今度こそたった一人になってしまったのだ。
毛の塊はいよいよ集まり、襲いかかろうと迫ってくる。追い詰められた男は半狂乱になって、できる唯一のことをした。男は自分の部屋の扉を開けて中に入り込んだのだった。
シルバーバックは部屋にいた。サイズが小像ほどの大きさに膨れあがり、部屋の大部分を占領している。シルバーバックがワサワサとその体を大きく揺らして男の存在に気づく。すでにこいつは目が覚めている。男はなす術がなかった。絶望のうちに足の動かなくなっている男にシルバーバックはゆっくりと覆いかぶさる。飛びかかられると、あとはもう幾重にも重なる毛に埋もれて男は何も見えなくなった。
暖かな何かが滑るような感触がして首と鼻と覆う。
「俺はコイツに食べられているのかな。」と、意識が遠のく中で男は思った。
「コイツはやはり生きていたのだ。シルバーバックは意思を持った生き物だった。俺の心を操るほどにこいつは自分のことを知り尽くしている存在なのだ。」男はそのまま気を失った。
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