第一章 逆光

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 まだ日が高いうちの入浴ほど贅沢なものはないと本庄玲夏は思っている。 防水CDプレーヤーからはショパンが流れていた。彼女はメロディに合わせて鼻唄を刻みつつ、浴室の大きな鏡に映る自分の身体を隅々までチェックする。 誰もが羨むプロポーションを維持するための努力を玲夏は怠らない。少しでも変化があれば揚げ足を取る人間は大勢いる。 エステとジムで磨きあげた身体を満足げに見つめて彼女はバスルームを出た。  バスローブを羽織り、丁寧にスキンケアをしていると携帯電話が着信を鳴らす。液晶画面の名前に心踊るよりも不安の方が先行してしまったのは、付き合いの長さから来る勘だろうか? 「もしもし」 {……ああ、俺} 「俺ってどちら様ですかー。流行りのオレオレ詐欺ですかぁ?」 わざと棒読みで言ってみると相手は呆れたように笑っていた。 {何言ってんだよ。彼氏の声を忘れたか?} 「1ヶ月会ってないなら忘れちゃうかもね」 もちろん冗談だ。会いたくてたまらない男の声を忘れるわけがない。 {私、早河仁と申しますが女優の本庄玲夏さんでいらっしゃいますか?} 「ご丁寧にどうも。で、どうしたの? 約束までまだ2時間あるのに」  恋人の早河仁とのデートの約束は午後6時の待ち合わせだ。だが彼がこの時間に連絡してくると言うことは。 {悪い。今夜会えなくなった。7時から捜査会議が入ったんだ} 予感的中。玲夏はドレッサーの椅子にもたれて溜息をつく。 「やっぱり。デートの前の仁からの連絡はだいたいこれだもん」 {ごめん} 「仕事ならしょうがないじゃない。デートがある日でも事件は起きちゃうものよね」 ワガママを言って困らせたくないから平気なフリが当たり前になってしまった。本当はもっと……もっと言いたいことがあるのに。 {この前の誕生日の埋め合わせもちゃんとするから} 「わかった。でも仁、嬉しそう」 {嬉しそう?} 「事件が起きて嬉しくてたまらないって感じの声してる」 {よせよ。事件なんか起きない方がいいんだ}  早河は即座に否定したが電話の向こうにいる彼は嬉々としているように思う。きっと性に合わない昇任試験の勉強をするよりも捜査で身体を動かせる方が気楽なのだ。 「今夜は警視庁に泊まり?」 {ああ。後で家に着替えだけ取りに帰る} 「ふーん。じゃあ私、警視庁まで差し入れ持って行こうかな」 {おいおい。お前がここに来たら騒ぎになるぞ。仮にも芸能人……} 「冗談よ。でもせっかくの久しぶりのオフのデートなのにキャンセルになって暇なのよ」 片手で目元美容液を塗り終えた彼女は携帯を耳に当てたままドレッサーからソファーに移動した。 {俺だって今夜は楽しみにしてたんだぞ。最近は本庄玲夏にはテレビでしかお目にかかってないからな} 「仁はまだいいよ。私をテレビの中ででも見れるんだからね。私なんて会いたくても仁の声しか聞けないのよ。今夜はどうしても会いたかったのに」 仕事で意気揚々としている早河の声が憎らしくて、少しだけゴネてみる。たまにはこれくらいのワガママも言ってもいいだろう。 {どうした? なんかあったのか?} 「別にー。ただ明日の撮影がちょっとね。ラブシーンがあるってだけ」 {へぇ。ラブシーンってベッドのやつ?} 「それ以外に何があるの」 {あるだろ。キスとかハグとか……} 「それ、女優から言わせてみればラブシーンのうちにも入ってないからね」  明日は映画の撮影が入っている。ベッドシーンの相手役は十歳年上の実力派俳優。R指定とまではいかないが監督が繊細な心理描写を重視するため、演じる側も気構えがいる撮影だ。 {どこのテレビ局で撮るんだ?} 「スタジオじゃないよ。撮影はお台場のホテルを借りるの」 ラブシーンには反応が薄かったわりにお台場と出した瞬間に早河の雰囲気が変わった気がした。 {まぁ……頑張れよ} 「言われなくても頑張りますー!」  まだ仕事が残る早河との通話を終わらせて玲夏はソファーに寝そべった。ドライヤーで乾かした髪からはヘアトリートメントのフローラルの香りがする。  玲夏の職業は女優。十代からティーン向けファッション雑誌のモデルとしてカリスマ的人気を獲得してきた彼女が女優に転向したのは5年前。当時は脇役だった玲夏も今ではドラマや映画の主演を張るまでになった。 今年上半期のCM起用社数でも玲夏はトップ5にランクインしており、来年の大河ドラマの出演も決まった。世代によって認知度の偏りはあっても、今や日本で本庄玲夏の名前を知らない若年層はいない。  そんな彼女の恋人が警視庁捜査一課刑事の早河仁。彼との交際は2年になる。 刑事と女優、互いにスケジュールが不規則な二人が付き合い続けていくのは容易ではない。どちらかがオフでも相手は仕事だったり、今日のようにデートが当日にキャンセルになることもたびたびある。 ドタキャンも慣れたつもりだった。それでも今夜はどうしても、会いたかった。 (誕生日も電話だけだったし)  玲夏は先週、二十七歳の誕生日を迎えた。誕生日当日は玲夏も早河も仕事で会えず、ようやく会えると思った今夜のデートはドタキャン。 ファンからは事務所宛に山のように誕生日プレゼントが届き、現在撮影中のドラマの現場で共演者やスタッフにお祝いしてもらった。  誕生日当日に恋人と会えなくても、沢山の人が誕生日を祝ってくれる。だけど、どんなにファンの言葉から元気を貰い、励まされても愛する人の言葉には敵わない。 今夜は誕生日のお祝いも兼ねてのデートだったのだ。 「会いたかったのに。バーカ」 独り言を呟き、携帯電話のアドレス帳を開く。 (仁が捜査会議ってことは真紀もたぶん仕事かー。真紀とも春以降会ってないなぁ)  早河と同じ職場にいる幼なじみの小山真紀の連絡先を開きかけたが止めた。彼女は苛立ちを思いきるように大きく息を吐き、反動をつけてソファーから立ち上がった。
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