第一章 逆光

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7月21日(Sat)午前9時40分  お台場名物の観覧車は今日も青い空を背景にそびえ立っている。天気は晴れ、最高気温は32℃の予報が出ているが温暖化の影響で近年は予報よりも気温が高くなる傾向にある。 まだ午前中だが気温はすでに30℃近い。身代金五千万が入るケースを持ってお台場海浜公園に立つ早河の額も汗ばんでいた。 この時間帯のお台場周辺は人はまばらだが、隣接する遊園地や商業施設の開店時間になれば多くの人で混雑するだろう。 (玲夏の撮影場所のホテルってどのホテルだ?)  お台場にはホテルが多く建っている。ドラマの撮影で使うのならばそれなりの高級ホテルに違いない。 東京生まれ東京育ちの早河にとってお台場のホテルなど縁もなく泊まったこともない。東京出身だからこそ縁のない東京名所と言うものが存在する。  指定の午前10時まであと5分に迫る。警視総監の孫を誘拐し、わざわざ警視庁宛に脅迫状を送りつけた人間だ。警察の包囲網の中を犯人か犯人の仲間がノコノコ現れるとも思えない。 早河の腕時計は刻一刻と秒針を刻み、9時59分になり、その60秒後…… (まさか……) スラックスのポケットに入れていた早河の携帯電話が振動した。バイブを鳴らす携帯の液晶画面には非通知の文字。 {早河、どうした?}  接続したイヤモニから上野警部の声がした。上野を含めた捜査本部の刑事達が早河の様子を近くで見ている。 『俺の携帯に非通知で電話が……』 {……よし。出るんだ} 『はい』 イヤモニの上野の指示を受けて早河は携帯電話の通話ボタンを押した。 『もしもし』 {金を持って今すぐホテルオーシャン東京に向かえ}  ボイスチェンジャーのような機械的な声が聞こえた。声を変えて身元を特定させなくする。誘拐犯らしいやり口だ。 『ホテルオーシャン東京?』 {5分以内にホテルのロビーに来い} 機械的な声はそのまま通話を切った。5分以内と言うことはこの近くのホテルだ。早河はイヤモニに向けて状況を報告し、すぐに携帯の地図サイトで場所を確認した。 『警部、5分以内にホテルオーシャン東京に行けと指示がありました』 {ホテルオーシャン東京……早河、あの半円形の建物だ。行け} 『はい!』  海浜公園の目の前の道路を早河は走った。道路に面して建つ半円の建物がホテルオーシャン東京だ。 汗だくになってロビーに駆け込んだ早河をホテルマンが怪訝な顔で見つめている。時間は10時4分、なんとか間に合った。 足の速さには自信があっても五千万の金の入るケースを抱えての全力疾走は楽ではない。息切れをしている早河の携帯電話がまた振動した。 {合格だ}  こちらを嘲笑う見えない相手の態度に早河の怒りが昂る。 『どういうつもりだ? お前はどこにいる?』 {ゲームは始まったばかりなんだから焦らない、焦らない} 『ふざけるな。唯ちゃんは無事なのか?』 {今のところはね} 誘拐された門倉唯の安否が気がかりだ。今のところは無事……その言葉もどこまで信用していいかわからない。 『これからどうすればいい?』 {そのホテルの1503号室に行くといい。1、5、0、3、だ。間違えないように} 犯人はまた勝手に通話を終わらせた。早河は舌打ちして乱暴に携帯をポケットに押し込み、イヤモニの向こうの上野警部に報告する。 『1503号室に向かいます』 {わかった。香道を一緒に行かせる。気を付けろよ}  上野の言葉通り、早河がエレベーターに乗った後にバディの香道も乗り込んで来た。二人きりのエレベーター内で早河も香道も張り詰めた表情をしている。 『部屋に犯人がいるかもしれない。逮捕の時は慎重に、迅速に』 『わかってます。もしもの時は援護お願いします』  15階で早河が先に降り、香道は周囲の状況を確認しながら別のエレベーターで上がってきた捜査本部の刑事達と共にエレベーターホールと廊下に待機する。 長い廊下の両側に並ぶ扉の数字から1503号室を見つけた。ここに何がある? 誰がいる?  早河は慎重に1503号室のインターホンを鳴らした。緊張の一瞬。 万が一に備えてすぐに拳銃を取り出せるように身構えていた早河は細く開けられた扉から顔を出した人物を見て驚愕した。 1503号室から顔を覗かせたのはショートカットの小柄な女だ。それも早河には見覚えのある顔。 「え……あなたは……」 『えっと……玲夏のマネージャーの……山本さん?』  彼女は本庄玲夏のマネージャーの山本沙織だった。状況が読めずに立ち尽くす両者の背後にさらに声がかかる。 「……仁? 何してるの?」 沙織の後ろから出てきたのは昨夜のデートをドタキャンしてしまった相手である恋人の玲夏だ。 『玲夏? お前こそどうしてこんな所にいるんだ?』 「昨日の話忘れたの? 撮影でここを借りてるのよ」  部屋には玲夏と沙織の他にも男性や女性の撮影スタッフが入り交じっていて、早河はますます混乱した。 誘拐犯が指定した1503号室には犯人どころか人質もいない。念のため1503号室の中を見せてもらったがそこにいたのは玲夏と撮影スタッフだけだ。  早河は警察手帳を提示して事のあらましを玲夏やスタッフに伝えた。誘拐された少女が警視総監の孫と言うのは伏せたが、誘拐犯がこの部屋を指定した経緯を聞いて玲夏やスタッフ達は困惑している。 捜査本部の刑事達も部屋の前に集まっていた。 早河と玲夏は部屋の中で話し合う。 『玲夏がこの部屋に来たのは何時頃?』 「入ったのは9時だったかな。撮影開始が11時の予定だったからそれまで打ち合わせをしていて……」  突然、1503号室の電話が鳴り響いた。女性スタッフが電話をとり、二言三言会話をした後に戸惑いの目で早河を見る。 「あの、早河さん……ですよね? お電話です」 『俺に?』 女性スタッフから受話器を受け取った彼は通話口に出た。 {久しぶりに彼女と会えた気分はどうだい?} 『お前……』 またあの機械的な声が笑っていた。 『一体何が目的なんだ?』 {せっかくの愛しの彼女に会えたと言うのに機嫌が悪そうだねぇ} 『お前は何者だ?』 {今は私が何者かを尋ねるよりも早く彼女を避難させるべきだね。ホテルオーシャン東京に爆弾を仕掛けた。爆破時刻は10時30分。嘘だと思うのならあと10秒待ってごらん}  直後、近くで爆発音がした。驚いたスタッフがバルコニーに出て様子を窺っている。 {今のは台場公園に仕掛けた爆弾だ。威力はせいぜい公園の木々を吹き飛ばす程度。だがホテルに仕掛けた爆弾はこの何倍もの威力がある。君が今いる場所を簡単に吹き飛ばしてしまうだろうね} 早河はホテルのメモ用紙に台場公園、爆破、ホテルオーシャン東京、爆弾、10時半と乱雑に書いて香道に渡した。メモを見た香道は頷いて室内にいる玲夏とスタッフ達の誘導を始める。 『こんなことをして何になる? 金を手に入れたいんじゃないのか?』 {私の目的は金ではない。もう少しだなぁ。私の目的が何か、頭をひねって考えてみるといい}  通話の切れた受話器からはもう何も聞こえない。廊下やエレベーターホールは玲夏達や他の宿泊客、対応に追われる刑事とホテルの従業員で混雑している。 エレベーターホールとは逆の方向に行く早河を玲夏が引き留めた。 「仁! どこ行くの?」 『玲夏は香道さん達の指示に従ってくれ。ここに爆弾が仕掛けられているかもしれない。早くホテルを出るんだ。後で連絡するから』  玲夏の制止を振り切って早河は人の波とは逆方向に向かった。爆弾を仕掛けるとすれば非常階段か、客室か、それともホテル設備のどこか……。  人気女優の本庄玲夏がホテルオーシャン東京で撮影をしていると宿泊客の数名がネットに書き込んだことで、ホテルの前は玲夏を一目見ようと人だかりができていた。おまけに台場公園の爆破騒動で駆けつけた報道陣もホテルの前に詰めかけている。 ここに爆破予告があったにもかかわらず、本庄玲夏を見ることしか頭にない連中はどれだけ刑事達が制止をしてもホテル内に入ろうとする。玲夏はスタッフに囲まれてすでにホテルの裏口から外に出ていた。  騒然とするホテルから早河が待避した時、時間は10時25分だった。ギリギリまで爆発物を探したが何も見つけられなかった。 爆破予告の10時30分を10秒過ぎたが何も起きない。放心して半円形のホテルを見上げる早河の携帯電話が鳴った。着信は上野だ。 {早河、やられたよ。本来の目的はこっちだったようだ} 『まさか人質が……』 {いや、人質の安否はまだわからない。殺られたのは門倉警視総監だ。総監が射殺された}
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