story1.闇夜の迷宮

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6月3日(Sun)  サッカークラブの監督の奢りで昼食をご馳走になった二十五人のクラブメンバー。この後はチームメイトだけでイタリアにサッカー留学が決まった彦坂京介の送別会が行われる。  昼食を済ませた定食屋を出たところで隼人だけが監督に少し残れと引き留められた。他のメンバーはここから徒歩で行けるカラオケに先に向かい、隼人は監督と共に定食屋に引き返した。 監督の友人が経営する定食屋は隼人たちのために本日貸し切り。店内では店主とその妻の女将が片付けをしていた。 隼人達が席に座ると、気を利かせた女将が緑茶を出してくれた。ここの店主と監督は大学時代からの仲らしい。 『隼人、本気で辞める気か?』 『はい。今日は京介のために来ましたけど、俺はもうサッカーはやらないって決めたんです』 『Jリーグに行くことだけがサッカーじゃないぞ。お前は優秀なプレーヤーだ。辞めるのはもったいない』  監督の想いはわかっている。隼人のサッカー人生は監督の指導の下で作られてきた。楽しい時も辛い時も監督がいつも一緒だった。 一緒に笑って泣いて、怒ってくれて。だからこそ隼人も監督の前で本音をさらけ出せる。 『これは俺のケジメなんです』 『ケジメ?』 『極端な考えかもしれませんが、京介に負けたらサッカーを辞める、そう決めていました。だから絶対に留学してやるって思っていたんです。俺も高二ですから真剣に今後のこと考えようと思って、親とも話したんです。サッカーで食っていくか、きっぱり縁を切るか……』 スポーツだけで生活できるほど現実は甘くない。これは両親と話し合った結果でもある。 『でも実際に辞めてみると思ってた以上にダメージがでかくて、情けないです。今の俺はなんか空っぽなんですよね』  辞めてもどうってことないと思っていたのに、サッカーを失くした自分には何も残っていなかった。空っぽになった穴を埋めるために煙草に手を出し、女と遊んで現実逃避して、自分でも呆れて笑えるくらいに腐っていった。 『それなら、なおさら戻ってこい。俺もチームの皆もお前が帰ってくるのを待っているんだ』 監督の言葉に隼人はかぶりを振る。 『カッコ悪いですけど、今はボールと向き合うのが怖いんです。自信無くしたって言うか……。俺ってこんなに打たれ弱かったんだなって』 監督はそれ以上は何も言わず、何かあればいつでも連絡してこいとだけ言ってくれた。  チームメイトの隆太からカラオケの部屋番号がメールで送られてきた。定食屋で監督と別れて、カラオケ店に向かった隼人はロビーのエレベーターの前で隆太と合流した。 『監督と話ついた?』 『ああ。戻らないって言ってきた』 『……そっか。ま、今日は騒ごうぜ。皆、隼人を待ってる』  隆太は一瞬悲しげな顔を見せたがすぐに明るく笑って隼人の背中を叩く。気遣ってくれる隆太には申し訳ない気持ちになるが、こればかりはもう決めたことだ。  カラオケルームは二十五人が余裕で入れる大部屋だった。隼人は皆の勧めで今日の主役、京介の隣に座らされた。 京介は変な被り物を被らされて口元には付け髭、金色の蝶ネクタイまでつけている。主役と言うよりは罰ゲームをやらされているような有り様だ。しかし本人は至って楽しそうで、楽しげに仲間達と騒ぐ京介を見ているのが隼人も楽しかった。  京介は隼人がサッカーを辞めたことについて何も言わない。隼人が同情や慰めを求めていないことを京介はよくわかっている。 互いが決めたことに口出しはしない。それが彼らの友情だ。  4時間カラオケで騒いで、あっという間に夕方になっていた。数人が解散して残ったメンバーでファミレスに入り、少し早い夕食の時間を過ごす。  ファミレスを出てまた数人と解散して最後まで残ったメンバーは隼人と京介、隆太、あと五人の八人。小学生から一緒にサッカーをやって来たいつものメンバーが最後まで残った。 隼人達はまだ帰る気もなくゲームセンターに入り浸る。適当にいくつかゲームをやり、だらだらと時間が過ぎていった。でもこんな無意味な時間がたまらなく意味があって楽しいと感じる。 意図的にか偶然か、隼人と京介を残して他のメンバーはざわつく店内のどこかに消えていた。 『イタリア、いつ行くんだ?』  隼人は自販機でジュースを買う京介の背中に話しかけた。隼人達の前にはジュースやアイスの自販機が並んでいるだけで、パーティションで仕切られた向こう側からは店内を流れるヒップホップの音楽と人の声が漏れ聞こえている。 『来週の土曜』 『成田? 羽田?』 『羽田。見送り来てくれるのか?』 『仕方ないから行ってやる。お前には見送りに来てくれる彼女もいねぇしな』 『うわっ! 何その上から目線』 京介が自販機で買ったジュースの一本を隼人に向かって投げた。隼人はジュースを受け取り、ベンチに座る。京介も隼人の隣に座った。 『しばらく日本ともお別れだな。納豆が食べられないのは辛い』 真面目な顔で何を言うかと思えばこれだ。京介の天然発言に隼人は苦笑いで返す。 『納豆食べたきゃ、イタリア人にオクラ乗っけたピザでも作ってもらえよ。同じネバネバだろ』 『オクラはダメ。納豆ピザか納豆パスタにする。あ、まずイタリアに納豆売ってないか……?』 『バカか。あんなネバネバしたもんよく食えるよな』 『納豆の悪口言うな。隼人はホントに納豆嫌いだな』 納豆の話は正直どうでもよかった。こんな会話がしたかったんじゃない。 『……京介。わかってると思うけど俺に遠慮なんかするなよ。そんなことしたら殴る』  ふざけた口調から切り替えると京介も笑っていた口元を引き締めた。 『ああ』 『胸張って行ってこい。誰にも負けないプレーヤーになって戻ってこいよ』 『隼人。俺さ、お前がチームメイトでライバルで本当によかった』 京介が隼人に片手を差し出す。隼人はその手を握った。 『俺もだ。京介は俺の最高の相棒で最強のライバルだからな』 『見送りの餞別(せんべつ)は納豆でよろしく』 『バーカ』  二人は顔を見合わせて笑い、少し涙ぐむ京介につられて隼人も少し涙が滲んだ。別れの挨拶はまた見送りの時に。 (頑張れよ……京介……)
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