スピンオフ1.【茜色の通学路】

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 中学三年の夏休みのある日の午後。 麻衣子は隼人と夏休みの宿題を隼人の自宅で一緒に行う約束をしていた。隼人と約束した時間に彼の家の呼び鈴を鳴らす。 玄関の扉が開いて出迎えてくれたのは幼稚園の頃から顔馴染みの隼人の母親だ。 隼人の母親に挨拶して麻衣子は勝手知ったるこの家の階段を上がる。二階の廊下に並ぶ部屋の右奥が隼人の部屋だ。 「隼人ー?」 扉を何度ノックしても返事がない。 「入るよー?」  麻衣子は隼人の部屋の扉を開けた。部屋には隼人が好きなアメリカの男性ミュージシャンのロックな歌声がコンポから流れている。 歌詞はすべて英語、まだ中学生の英語力しかない麻衣子には何を言っているのかさっぱり聞き取れない。 (隼人はよくこんな英語ばかりの曲が聴けるよね。何言ってるのか全然わかんない)  部屋の主はベッドの上で仰向けになって眠っていた。 「もうっ……!」 音を立てないように静かにベッドに近付いて彼女はベッドの側に座った。隼人は冷房の風に当たって気持ち良さそうに寝入っている。  隼人は中学生になってから体つきがたくましくなった。身長もいつの間にか伸びて、声変わりした声は小学生の時よりも低い。 タンクトップから出ている二の腕や服の上からでもよくわかる厚くなってきた胸板。少しずつ隼人は男の子から男の人に変わっている。 「でも寝顔は子供みたいだけど」  ベッドの端に頬杖をついて隼人の寝顔を眺めた。 ロックミュージックが流れる部屋で隼人のベッドから香る隼人の香り、そして隼人の寝顔を今は麻衣子だけが独り占めしている。 きっと幼なじみの立場以外でこの至高の時を独り占めできるのは隼人の恋人になる人だけ。 (だけど私は隼人の彼女じゃない……) 『……んー……』  隼人が目を開けた。麻衣子は慌ててベッドから離れ、寝ぼけ眼で麻衣子を見上げる彼を見下ろす。 『……なんだ麻衣子か』 「なんだって何よ! 約束忘れて寝てたくせに」 『悪い悪い』  あくびをして起き上がった隼人は麻衣子の目の前で恥ずかしげもなくタンクトップを脱いだ。隼人の上半身裸の姿はプールの授業で見慣れているはずなのに、今は妙に恥ずかしくて麻衣子は隼人から顔をそらした。 『顔赤いぞ』 上半身裸のままテーブルに置いたペットボトルの飲み物を飲んだ隼人は麻衣子を一瞥して意地悪く笑った。 (悪の帝王めっ! 私が恥ずかしがるのをわかっててやってるなら本当にコイツは悪魔だ) 「赤くなってないもん!」 『へぇ? それに俺が目を開けるまでずっと俺の寝顔見てたよな?』  隼人には麻衣子の行動はすべてお見通しだった。 気付いていたのにそのまま寝たフリを続ける隼人はやはり意地が悪い。悔しくなった麻衣子は憮然として答える。 「それは……あんまり気持ち良さそうに寝てるから顔にラクガキでもしてやろうかと思って」 『ふーん。俺はてっきりお前がキスでもしてくるのかと思ってた』 「どうして私が隼人に……キスしようとするのよ?」  もう心臓がもたない。隼人は麻衣子をからかって面白がっている。 (キスって私が隼人に? それは私からキスしてもいいってこと?) 『あの状況じゃそれがお約束だろ?』  タンスから新しいタンクトップを出した隼人はようやく露出した上半身を服で覆った。そしてもう何事もなかったかのようにローテーブルを挟んだ麻衣子の向かいに座って夏休みの宿題の問題集をひらいている。  人の気持ちを乱すだけ乱しておいて、自分は平然と勉強を始めている。 こんな奴のどこがモテるの? こんな奴のどこが王子様? 隼人は絶対に悪の帝王だ。  コンポの電源が切られた室内では麻衣子と隼人の息遣いと問題集や辞書のページをめくる音だけが響く。 たまにわからない問題を隼人に教えてもらいながら宿題を進める。隼人の頭の構造はどうなっているのか、彼は文系も理系も難なくこなしてしまう。 今解いている英語の問題も彼の英文を訳す速さにはいつも驚かされる。  シャープペンシルを握る隼人の手は大きくて男らしい。彼の手はこんなに大きかったかな? 隼人が麻衣子の知らない隼人になっていく。 どんどん手の届かない存在になっていく。 麻衣子の知らない隼人が増える。  小学生時代は隼人のことなら何でも知っていた。好きな食べ物、テストの点数、先生や親に内緒にしているイタズラの事、サッカーの試合で負けた時の隼人の悔し涙…… 隼人のことを一番知っているのは自分だと思っていた。だが中学生になってからは少しずつ麻衣子の知らない隼人が増えてきた。 サッカー部の朝練や放課後の部活がある隼人とは中学生になってからはほとんど一緒に登下校したことがない。それはバスケ部にいるもうひとりの幼なじみの渡辺亮も同じ。  小学生の時は幼なじみ三人一緒に並んで歩いていた通学路を今は麻衣子ひとりで歩いている。  学校でも隼人と渡辺とはクラスが違い、用事がない限りは校内で彼らと話をする機会も滅多にない。  隼人とは学校内で話しにくい理由があった。たまに廊下で隼人とすれ違って立ち話をするだけで麻衣子は他の女子生徒の反感を買ってしまう。 隼人を好きな女の子はたくさんいる。彼女たちにとって幼なじみとして当たり前に隼人の側にいる麻衣子は目障りな存在だろう。
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