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1:最期の声と、残された願い
焼け落ちる王宮と、心に刻まれた断末魔の声。
ーーレイア!
愛しさが焼けつくような絶望を感じた。
声を限りに彼の名を叫ぶ。心が壊れそうな非道な光景。怒号と悲鳴。崩壊と消失。
ーー陛下! トール陛下!
炎に吸い込まれるように消えた人影。煙にのまれ、すぐに彼女の意識も断たれた。
「レイア様」
体に触れる気配で、レイアはハッと目覚めた。石を削り出して表現された精巧な細工が視界に入る。寝台の天蓋に施された彫刻。石造りの宮殿の厳かな雰囲気を肌に感じて、彼女の意識はすぐに現実に引き戻された。
「うなされていたようですが、大丈夫ですか?」
「ノルン」
すぐに寝台の傍らで自分を気遣う侍女の眼差しを見つける。馴染みのある穏やかな顔を見て、レイアはほっと息を吐いた。
ゆっくりと上体を起こすと、つっと頬を伝う涙に気付く。もう何度目かもわからない悪夢。同時に、自分の記憶に残された唯一の情景。
いまは悪夢の内で交錯する感情だけが、レイアの真実だった。
他のことは何も覚えていない。絹を裂くような声で呼んだトールの顔貌すら、記憶には残されていなかった。ただ自分は彼を愛していた。
炎の内に消えた姿を想うたびに、胸が締め付けられるように苦しくなる。
ーー私はこの世の平和を望む。人界の自由な世を。
ふと失われた記憶から、言葉だけが蘇ることがある。声色までははっきりしない。唯一辿ることが出来る断末魔の声と重なるようで、重ならない。
けれど、蘇る言葉にも親しみと愛しさがこみ上げる。
はっきりと確信ができなくても、きっと断末魔の声と同じ人の言葉なのだろう。
トール=ニブルヘム。人界ヨルズの最後の王。
記憶を失ったレイアにこれまでの経緯と現況を教えてくれたのは、寝台の傍らで心配そうにこちらを窺っているノルンだった。彼女はレイアの侍女であったようだが、レイアには人界での記憶がない。
自分の名がレイアであること。
王であるトールの妃であったこと。あの悪夢の情景のあと、人界が跡形もなく滅ぼされたこと。
天界、人界、魔界。三界の熾烈な戦いの歴史。
いまこの世界に存在する人という種族を、レイアはノルンしか知らない。
自分たちは無残に敗れた、人界の民の生き残りだった。
「また、最期の夢を見ておられたのですか」
寝台に寄り添うように身を寄せて、ノルンが労わるようにレイアを見つめている。レイアは涙に濡れた頰を拭って、かすかな笑みを向けた。
「はい。でも、忘れてしまうよりは良いです。私にはこれしか思い出がありませんから」
ノルンの話に寄ると、自分は魔界にある魔王の宮殿に幽閉されているらしい。レイアはそっと寝台を出ると、傍らの鏡台の前に立った。
緩やかな癖を持つ煌めくような金髪。翡翠のような碧眼。透き通るような肌の白さ。人界の至宝と謳われた美貌が映っている。その名声もノルンに教えられたことだったが、これが自身の容姿であることは、不思議と心に刻まれていた。
レイアは自分が生かされている意味を考える。
魔界の主は、この容姿を欲しがったのだろうか。魔族がどんな嗜好を持つのかは知らない。いつ魔王が訪れるのかと恐れていたが、一月が過ぎた頃からレイアの恐れは希薄になりつつあった。
この宮殿に幽閉されて、もう二月は過ぎたのではないだろうか。なのにレイアはまだ主に会ったことも、見たことすらなかった。
まるで自分を連れ帰ったことを忘れ去っているかのように音沙汰がない。宮殿の外へ出ることを禁じられている以外は不自由もなかった。レイアの身の回りの世話は全てノルンを介しているが、覚悟とは裏腹に、この宮殿内での扱いは丁重に感じられる。ノルンの気遣いによって、そう見えているだけなのだろうか。
レイアはノルンにいつものように身支度を整えてもらいながら、そっと鏡に映る自分を見た。与えられた衣装は全てが純白で、光沢のある一枚布を金の宝飾で留めて身につける。
失われた記憶の内でも、きっと王妃として同じような衣装を纏っていたのだろう。金の細工で飾られた装飾が胸元を飾り、美しい襞のある生地が身を飾る。
人界の至宝と謳われるのも無理はない、夜着を脱ぎ捨てて着替えると、まるで女神のようだった。囚われの身とは思えない待遇である。
レイアは鏡から目を背けて、ノルンの柔和な顔を見た。
ほっと安堵の息が漏れる。
「あなたがいてくれて良かった。私だけでは、何もわからずただ怯えているだけだったでしょうから」
「私がレイア様のお傍にいられて良かったです。きちんと成り行きをお伝えすることができて……。あんなことがあったのですから、記憶が混乱するのも仕方がありませんが、私はレイア様にご自身のことを忘れてほしくないのです」
「ノルン。でも、もう誰もいないわ。あなた以外に私のことを知っている者もいない。人界は失われてしまったのでしょう?」
「ーーはい。そして、人界から全てを奪った者が、この魔界の王です」
「わかっています。私も覚悟はしています」
悪夢の中でも蘇る愛しさ。刻まれた心は消えない。
レイアには、トールへの想いを踏みにじられて生き抜く意味もない。
「レイア様のことは私が命に代えてもお守りいたします。どうかトール陛下の夢を諦めないでください」
「陛下の夢?」
自分には最期の声しか残っていない。何かを誓っていたのだろうか。
「陛下はいつも人界の自由を願っておられました。人々が笑顔を絶やさぬ平和を」
ーー私はこの世の平和を望む。人界の自由な世を。
誰の言葉かもわからない声と重なる。やはりこれはトールの言葉だったのだ。
残された想い。
失なわれずに刻まれているのは、自分に託された夢があった証だろうか。
「人界の平和」
言葉にすると、それは力を伴ってレイアの心を奮い立たせた。
生きるための糧があったのだ。諦めてはいけない夢が。
レイアは胸に添えた両手をぎゅっと握りしめる。
何の戸惑いもなく受け入れられる。自分は夢を語る人の隣で、たしかに笑っていた。同じように夢を語り、平和な未来を望んでいたのだ。
「レイア様。私達以外にも、もしかすると生き残った者がいるかもしれません。生き抜けば人界の復活を果たすという希望も抱けます。今はそれを信じていましょう」
ノルンの案じる気持ちが伝わってくる。彼女は囚われた自分が絶望しないために希望を語ってくれているのだ。レイアにはこの先、魔王によってどのような過酷な仕打ちが用意されているのかわからない。
考えるだけで、身が竦む。ただ恐ろしい。
けれど、蘇った想いに背くことはできない。
人界の復活。戦いのない平和な世。途方もない夢だが、今は信じて希望の火を灯そう。途切れそうな細い道を照らして、暗闇を歩く。
決して、諦めてはいけないのだと。
勇気だけが、消えない灯火になる。
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