3:逃避行の失敗

1/1
前へ
/69ページ
次へ

3:逃避行の失敗

 宮殿を含む魔王の敷地は、地底(ガルズ)の中央の丘にあり、魔王の丘(オーズ)と呼ばれている。ノルンはそつなく宮殿内の逃走経路を調べていたのだろう。レイアは自分に与えられていた住処が、宮殿に連なる塔であったことを初めて知った。魔王の丘(オーズ)の敷地は広大で、塔を小さく感じる。曇天が日常であるかのような薄暗い土地で、聳え立つ宮殿も霧に包まれていた。  魔王の丘(オーズ)の守衛だろうか。時折異形の顔をした者が槍を手に立っている。レイアははじめて見る魔族に悲鳴をあげそうになって、何度も声を呑み込んだ。 「レイア様、大丈夫ですか?」 「――はい」  レイアは気丈に駆け続ける。辺りに立ち込める霧の深さが、二人の姿を隠してくれていた。つないだノルンの手の温かさだけが、レイアの励みだった。  やがてノルンは、宮殿の聳える広大な敷地をこえて、見事に魔王の丘(オーズ)の外れまでレイアを導いた。  霧に包まれた深い森が、眼下に広がっている。気が緩みそうになったレイアの手を、ノルンが強く握りしめた。 「レイア様、地底(ガルズ)の森はさらに危険です。ここは魔獣の生息地なのです。魔獣には、その手にある証をかざしてください。魔獣の目を眩まします。ですが、油断は禁物です」 「わかりました」  レイアは金の塊ーー天界(トロイ)の証を握る手に力を込めた。天界の王が与えてくれた加護を信じて進むしかない。  どのくらい進んだのだろうか。木の根に足を取られながらの道のりは、レイアから体力を奪っていく。霧の密度も一定ではなく、じめじめとした空気も疲労感を強めた。 「レイア様!」  ノルンの悲鳴にハッとした時には遅かった。天界の証をかざそうと振り上げた手から、勢いで証を取り落としてしまう。とびかかってくる影を感じて、レイアは固く目を閉じた。 「止まれ、ヨルムンド」  切り裂かれる痛みを覚悟していたレイアの耳に、低く穏やかな声が響いた。ざっと身近で動きを止めたのは、魔獣の気配だろうか。  レイアが恐る恐る顔をあげると、霧に煙る木立からゆっくりと歩み寄ってくる人影が見えた。森の薄暗さに明るさを感じるほど、纏う影が黒い。黒曜石の断面のように、吸い込まれそうな暗黒だった。  レイアはゾッと心が凍る。  黒衣を纏った人影は異形ではなかったが、得体の知れない恐れが肌を粟立たせた。 「レイア様に近寄るな!」  ノルンが聞いたこともない厳しい声で叫ぶ。素早くレイアをかばうように前に立った。  霧の中から現れた人影が歩みを止める。魔王の丘(オーズ)で見た魔族とは異なり、それは人だった。  癖のない黒髪は長く、落ちかかる髪が顔を半分隠しているが、恐ろしい気配とは裏腹に、美しい姿をしている。 「どこへ行く?」  酷薄な声だった。現れた男は、ノルンを見据えて嗤う。 「どこへ行くのかと、聞いている」  ノルンは答えない。レイアは男の素性に一つの予感を覚える。もし予感が当たっているのならば、ノルンが答えられるはずがない。  レイアは心を決めて黒衣の男の前に進み出た。頭を垂れて礼を尽くす。 「私は大地(ヨルズ)の民、レイアと申します。地底(ガルズ)を治める王を訪ねて魔王の宮殿(オーズ)を出て参りました」 「ーーレイア? 何の話だ」  男はレイアを一瞥したあと、再びノルンを見た。 「……どういうことだ。何を企んでいる?」 「誰も天上(トロイ)の王には背けません」  黒衣の男の顔色が変わった。 「っ、ーー黙れ」  低い呟きと同時に、レイアの視界に血しぶきが舞った。ゴロリと足元に転がったものをみて、喉が引きつるような声が出る。 「ノ、ノルン!」  首を落とされた体が、どっとレイアの前で倒れた。咄嗟にその体に取り縋る。  何が起きたのか分からない。ノルンの体を抱いたまま、レイアもここで命を絶たれるのだという恐れが競りあがってきた。取り乱しそうになる心をおさめて、覚悟を決める。  はじめから話の通じるような相手ではなかったのだ。  自分よりも先に逝ってしまったノルンを悼みながら、レイアは滲む視界に黒衣の男を映した。  覚悟を決めると、苛烈な憎悪が胸に宿る。レイアはぎりっと男を睨んだ。 「ーーっ」  何かを言いかけた男が、ふらりと姿勢を崩す。まるで発作にでも襲われたように、苦しげに呻きながら、長い髪で隠された右眼を手で抑えている。  レイアは咄嗟に視界の端に映った黄金の塊――さっき取り落としてしまった天界(トロイ)の証に手を伸ばした。これで男の目を眩ませることも出来るのではないかと、一縷の希望にすがる。 「なぜだ……」  証を手にした瞬間、背後から男に腕を掴まれる。長く伸びた黒い爪が、レイアの白い肌を傷つけた。細い腕に血が滲む。  心の凍るような邪悪な気配に囚われ、身が竦んだ。 「なぜ、そんな目で私を見る?」  強い力で頤を掴まれ、レイアは振り向かされる。至近距離に男の顔が迫っていた。 「ーーおまえが、私を恐れるのか。ルシア」  垣間見えたのは、美しい顔に刻まれたこの世の邪悪。長い髪に隠されていた恐ろしい右眼が物語る。レイアの脳裏に、耐えがたい恐怖がまき散らされた。  悲鳴をあげることもできないほどの暗い衝撃。  レイアは奈落に引き込まれるように、気を失った。
/69ページ

最初のコメントを投稿しよう!

120人が本棚に入れています
本棚に追加