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3:逃避行の失敗
宮殿を含む魔王の敷地は、地底の中央の丘にあり、魔王の丘と呼ばれている。ノルンはそつなく宮殿内の逃走経路を調べていたのだろう。レイアは自分に与えられていた住処が、宮殿に連なる塔であったことを初めて知った。魔王の丘の敷地は広大で、塔を小さく感じる。曇天が日常であるかのような薄暗い土地で、聳え立つ宮殿も霧に包まれていた。
魔王の丘の守衛だろうか。時折異形の顔をした者が槍を手に立っている。レイアははじめて見る魔族に悲鳴をあげそうになって、何度も声を呑み込んだ。
「レイア様、大丈夫ですか?」
「――はい」
レイアは気丈に駆け続ける。辺りに立ち込める霧の深さが、二人の姿を隠してくれていた。つないだノルンの手の温かさだけが、レイアの励みだった。
やがてノルンは、宮殿の聳える広大な敷地をこえて、見事に魔王の丘の外れまでレイアを導いた。
霧に包まれた深い森が、眼下に広がっている。気が緩みそうになったレイアの手を、ノルンが強く握りしめた。
「レイア様、地底の森はさらに危険です。ここは魔獣の生息地なのです。魔獣には、その手にある証をかざしてください。魔獣の目を眩まします。ですが、油断は禁物です」
「わかりました」
レイアは金の塊ーー天界の証を握る手に力を込めた。天界の王が与えてくれた加護を信じて進むしかない。
どのくらい進んだのだろうか。木の根に足を取られながらの道のりは、レイアから体力を奪っていく。霧の密度も一定ではなく、じめじめとした空気も疲労感を強めた。
「レイア様!」
ノルンの悲鳴にハッとした時には遅かった。天界の証をかざそうと振り上げた手から、勢いで証を取り落としてしまう。とびかかってくる影を感じて、レイアは固く目を閉じた。
「止まれ、ヨルムンド」
切り裂かれる痛みを覚悟していたレイアの耳に、低く穏やかな声が響いた。ざっと身近で動きを止めたのは、魔獣の気配だろうか。
レイアが恐る恐る顔をあげると、霧に煙る木立からゆっくりと歩み寄ってくる人影が見えた。森の薄暗さに明るさを感じるほど、纏う影が黒い。黒曜石の断面のように、吸い込まれそうな暗黒だった。
レイアはゾッと心が凍る。
黒衣を纏った人影は異形ではなかったが、得体の知れない恐れが肌を粟立たせた。
「レイア様に近寄るな!」
ノルンが聞いたこともない厳しい声で叫ぶ。素早くレイアをかばうように前に立った。
霧の中から現れた人影が歩みを止める。魔王の丘で見た魔族とは異なり、それは人だった。
癖のない黒髪は長く、落ちかかる髪が顔を半分隠しているが、恐ろしい気配とは裏腹に、美しい姿をしている。
「どこへ行く?」
酷薄な声だった。現れた男は、ノルンを見据えて嗤う。
「どこへ行くのかと、聞いている」
ノルンは答えない。レイアは男の素性に一つの予感を覚える。もし予感が当たっているのならば、ノルンが答えられるはずがない。
レイアは心を決めて黒衣の男の前に進み出た。頭を垂れて礼を尽くす。
「私は大地の民、レイアと申します。地底を治める王を訪ねて魔王の宮殿を出て参りました」
「ーーレイア? 何の話だ」
男はレイアを一瞥したあと、再びノルンを見た。
「……どういうことだ。何を企んでいる?」
「誰も天上の王には背けません」
黒衣の男の顔色が変わった。
「っ、ーー黙れ」
低い呟きと同時に、レイアの視界に血しぶきが舞った。ゴロリと足元に転がったものをみて、喉が引きつるような声が出る。
「ノ、ノルン!」
首を落とされた体が、どっとレイアの前で倒れた。咄嗟にその体に取り縋る。
何が起きたのか分からない。ノルンの体を抱いたまま、レイアもここで命を絶たれるのだという恐れが競りあがってきた。取り乱しそうになる心をおさめて、覚悟を決める。
はじめから話の通じるような相手ではなかったのだ。
自分よりも先に逝ってしまったノルンを悼みながら、レイアは滲む視界に黒衣の男を映した。
覚悟を決めると、苛烈な憎悪が胸に宿る。レイアはぎりっと男を睨んだ。
「ーーっ」
何かを言いかけた男が、ふらりと姿勢を崩す。まるで発作にでも襲われたように、苦しげに呻きながら、長い髪で隠された右眼を手で抑えている。
レイアは咄嗟に視界の端に映った黄金の塊――さっき取り落としてしまった天界の証に手を伸ばした。これで男の目を眩ませることも出来るのではないかと、一縷の希望にすがる。
「なぜだ……」
証を手にした瞬間、背後から男に腕を掴まれる。長く伸びた黒い爪が、レイアの白い肌を傷つけた。細い腕に血が滲む。
心の凍るような邪悪な気配に囚われ、身が竦んだ。
「なぜ、そんな目で私を見る?」
強い力で頤を掴まれ、レイアは振り向かされる。至近距離に男の顔が迫っていた。
「ーーおまえが、私を恐れるのか。ルシア」
垣間見えたのは、美しい顔に刻まれたこの世の邪悪。長い髪に隠されていた恐ろしい右眼が物語る。レイアの脳裏に、耐えがたい恐怖がまき散らされた。
悲鳴をあげることもできないほどの暗い衝撃。
レイアは奈落に引き込まれるように、気を失った。
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