8

1/1
38人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ

8

「た……妙子か……?」 妙子のはずがない。あいつは死んだんだ。 治郎は自分に言い聞かせた。  だが、穴の上で薄笑いを浮かべ、じっと治郎を見る顔は、妻の妙子だった。  口元を歪め、妙子は嗤っていた。  自分は穴の上。治郎は穴の底で怯えている。  新婚初夜の日から五十年も続いてきた上下関係が、逆転したのだ。  それまでの妙子が治郎に向ける笑顔は、媚びたような諦めたような、物悲しい笑い顔だった。  だが今の嗤いは、長年自分を苦しめてきた男を嘲笑う、歓喜の嗤いだ。どれだけ嘲笑しようが、穴の底の男は這い上がってこれない。  妙子は躊躇(ためら)いもなく、嗤い続けた。 ※※※    三週間前。  妙子はコロナで陽性だったが、症状が軽かったためホテルに隔離された。  ホテルで暇を持て余すうちに、これは治郎から逃げる絶好の機会だと思い至った。  妙子は二十代のときに一度だけ家出をした。しかし、治郎が執拗に探し回り連れ戻された。顔の形が変わるほど殴られ、治郎からは一生逃げられないと諦めた。  だが、この入院に一縷(いちる)の希望を見いだしたのだ。  妙子はホテルから治郎に電話をかけ、病院に移されたと嘘をついた。もちろん、隔離病棟のため面会は出来ないと申し添えた。  その後、PCR検査が二回とも陰性だった妙子は、七日後にホテルを出た。 しかし家には帰らずビジネスホテルに連泊し、その間も治郎に時々電話をかけて、陽性のままだと信じ込ませた。  そして、家を出てから三週間後、妙子は看護師を装い声色を変えて治郎に電話をかけ、妙子は死んだと告げた。     指定感染症の新型コロナウィルスで亡くなった場合、死後二十四時間以内に遺体を焼却するとの規程があるため、ご遺体には会えないと伝えた。ワイドショーなどで同じような事例を観ていた治郎に、疑う余地はなかった。  治郎に自分が死んだと信じ込ませた妙子は、葬儀屋のフリをして家を訪ねた。喪服に帽子を目深に被りマスクで顔を隠し、妙子は自ら治郎に骨箱を手渡した。骨壺の中は、商店街の肉屋からただで貰った、鳥の骨などだ。人付き合いの広さが、思わぬ形で役に立った。  その後、治郎の様子を観察していた妙子は、ワープロを使い、裏山の地図入りの手紙を作り、外から玄関先に差し入れた。多趣味の妙子がパソコン教室で覚えたスキルだ。  治郎を誘き出した山は、ずいぶん前に第三セクターが再開発のために買い上げた山で、当時は一帯に温泉リゾートを作る計画があった。 そのボーリング調査のために縦穴を掘ったが、計画は頓挫し、その後は放置されていた。  妙子は、縦穴の上に裏山で拾い集めた木の枝を格子状に組み、その上に雑草を乗せて落とし穴にした。その後、家に地図を投函し、治郎をおびき寄せたのだ。  妙子は、お笑い芸人が落とし穴に落ちる番組を観ていたとき、治郎から殴る蹴るの暴力を受けたことが赦せなかった。いつか仕返ししてやろうと怨みをつのらせていた。ホテルの隔離中に裏山の縦穴の存在を思い出し、綿密に計画を練ったのだった。  
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!