第02話 劉元海

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第02話 劉元海

 王としてではなく、一なる敬すべきお方として語らう為にも、敢えてあざなにてお呼び致しましょう。匈奴(きょうど)を統べる屠各(とかく)部の主家、攣鞮(れんてい)氏の正嫡たる攣鞮淵(れんていえん)。また洛陽(らくよう)に人質として身を預けられてよりは、()帝より(りゅう)姓を下賜せられ、劉淵(りゅうえん)と名乗るよう命ぜられておりました。その字が、元海(げんかい)。  魏国の末期、権臣たる(しん)公・司馬昭(しばしょう)が、内にては魏の旧臣遺臣を大方掌中に収め、外にては(しょく)の地にあらせられた(かい)帝・劉禅(りゅうぜん)様に捕縛の辱めをなし、洛陽へと引き連れていた頃のことです。衆人が魏晋革命に何ら疑いを交えぬ、そのような折でありました。 「高帝(こうてい)、自ずから兵を統べ、往きて匈奴を撃てり。冬の大寒雨雪に遭い、兵卒の十に二、三は指を堕とせり。冒頓(ぼくとつ)は敗走を装い、漢兵を誘う。漢兵は冒頓を撃たんと()うも、冒頓は精兵を(かく)し、その羸弱(えいじゃく)なるを前面に配す。漢軍三十二万、匈奴を北に逐う。その多くは歩兵なり。高帝は先んじて平城(へいじょう)に到れるも、多くの歩兵は未だ到らず。冒頓、精兵四十万騎を従え高帝を白登(はくとう)にて囲む。七日の間、漢兵高帝を救い得ず」  背筋を伸ばして正座し、元海様が朗々と唱されたは史記第百十巻、匈奴列伝の一節。漢の祖、高帝・劉邦(りゅうほう)様が宿敵の項羽(こうう)を討ち果たし、いよいよ世に覇を唱えんとした頃の物語です。突如漢の地に襲いかかり、高帝を捕らえた北の覇、冒頓単于率いる匈奴。それはまた、元海様が興した国の名を漢と名付けるに当たる端緒とも申せましょう。 「何度聞いても痛快だな。最大の敵を倒し、世に敵はなし、とでも言わんばかりの劉邦。その鼻っ柱を、いきなりへし折る冒頓。元海、孫としてもさぞ誇らしかろう」  元海様に語り掛けたるは、仕立てのよい着物や、また正座をも崩していた王弥(おうび)でした。あの型に填まらぬ異才は、元海様のご学友であった折にても、やはりあの通りの振る舞いでおりました。 「尊き父祖の活躍さ。喜びなき筈がない。だが私は、この敗北を残した漢をこそ、重んずべきと思う」 「あん?」  訝る王弥に、覚えず孤人(こじん)が口を挟みます。 「君子は己が過ちを過ちと見、初めて君子足り得ましょう」  才気を恃みとし、殊更に弁を振るう、後顧するだに緊縮窮まりなき所業でありました。 「史記にて論ぜらるるを敢えて(ただ)さず、高帝の失策を残し置く。刊行をお許しになった宣帝(せんてい)の、先人の失策に学び、弛むまいと心する気概を見るかのようです」 「どうかね。武帝(ぶてい)の逆撃のお膳立てにも思えるがな」  さりとて王弥もまたひとかどの論者。論を以て攻めれば、またその裏には(ばく)すべき論を抱いてもおりました。  高帝を大いに破りたる、匈奴。ひとときはかの漢帝国を臣従に近い形にまで遇し得ておりました。なれど代が下り、武帝の御代、帝の勅を承けた衛青(えいせい)霍去病(かくきょへい)の両将が匈奴の軍を大いに打ち破り、漢匈彼我の立場を逆転せしめたのであります。  宣帝は、その武帝の後継。なるほど、高帝の失策が、先帝の偉業を讃えるに恰好の題材であると言われてしまえば、その理の前に黙り込むしかありませんでした。 「そ、それは――」  孤人の未熟は、今に始まったことでもありません。まして往時は、ただの文弱の徒。王弥、そして元海様のごとく、文武両道に通暁する歴々の、端にして要を衝く言葉には、しばしばやり込められたものです。  孤人が詰まったところに、ほっほ、と義父上、陳寿(ちんじゅ)様が肩をお揺すりになりました。  義父上は、それまでは上座にて、黙して我らの対話をお聞きになっておられていたのです。  元海様、孤人、同席の学友ら、そして王弥までもが襟元を正し、義父上のお言葉を聞き漏らすまいと、面持ちを引き締めます。 「劉左賢(さけん)元達(げんたつ)、そして阿豹(あひょう)。闊達に論じ合うは良い。彼我の論の狭間にこそ、未知の珠玉を見出せよう」  左賢は元海様の匈奴中における官名、阿豹は王弥のあだ名です。義父上は何故か、王弥だけは字でなく、あだ名でお呼びになります。手の掛かる子ほど可愛いとは申しますが、義父上にとっての王弥は、まさに斯様な子弟であったのやも知れません。 「故にこそ、論の違うを重んじよ。優劣は、あるいは存するのやも知れぬ。なれど論の深まるより先に優劣を仮定するは、得難き玉をも見失い兼ねぬ」  孤人と王弥とで、不承不承に見合うのです。孤人らが為そうとしたのは、まさしく義父上のご指摘のごとく、対手の論に穴がある、と決めて掛かっての論難でありました。  儒家、道家、法家。または武官文官。いずれの者らもがなす論戦とは、己の是、対手の非に基づくことが常。無論正しきことではあるのでしょう。なれど対手の論を知り、学び、重んじた上で此方の論を為さば、双方の見聞がより深まりうる。孤人も決して長からぬ宮仕えにて、少なからず目の当たりとしたことでもあります。  余談ながら、後年、義父上は()()、そして蜀漢(しょくかん)の三国が並び立った折の事跡を、敢えて鼎立(ていりつ)さるを保ち、「三國志」として撰ぜられました。至尊たる皇帝はただ一人と申せど、天下が三つに割れていたのは疑いなき事です。そのお言葉を借りれば、かの書にて義父上は、天の違うを重んぜられた、となるのでありましょうか。 「阿豹。武宣は戦勝を誉れとしたのであろうか」 「誉れとし、また謳い上げるを責務としたのではないか。天に覇たるの漢を、大いに示さねばならなかったはずだ」  頷き、孤人に目を転じます。 「元達。宣帝の覇業、いかに評する」 「勇武の誉れ高き武帝を失い、大いに揺らいだ漢朝を建て直されました。その御業は中興の祖と呼ぶに相応しきものに思われます」  やはり頷き、最後に、元海様に向かい合われました。すると元海様は少し困ったような、曖昧な笑みをお浮かべになりました。 「高帝の敗績、武帝の捷。天下の万象は在るべくして在るものにございます。なれば在るの在るをこそ容れ、なすべきをなす。これぞ正道と申せましょう。確かに、宣帝は尊ぶべき業を為されました。私は宣帝のごとき英賢なぞ持ち合わせぬ凡俗にはございますが、帝がお示しになった、正道を全うせんと精進を怠らぬ姿勢であれば、なんとか追従能いましょう」  と、ここまでを淀みなく述べられて後、元海様は小さく吐息をお漏らしになりました。 「誠に、先生の人使いの荒きこと。偶にはご自身で調停をなされたらいかがです」  義父上が、満足そうに目を細められるのでした。  元海様は、孤人と王弥との論を踏まえ、加えてその目途を、天下万民よりご自身へと向け直されました。経世済民の志は、修身をこそ基とすべき。ここに到り、孤人は恥じ入り、王弥はむくれました。 「壮士を導くに、儂はいささか老いておるよ。この場に左賢が居ますに、何を差し出がましき口を挟む必要があろう」 「では、そのお言葉のみ、有り難く頂戴致しましょう」  元海様が恭しく拱手なさりました。  その物腰たるや、実に堂々としたものでありました。年の頃は孤人らよりも下、元服したばかりではありましたが、既にして人を統べんがための術を知悉なさっておられたかのようでした。  と、そこへ、室外よりの声が届きます。 「ほう、懐かしき声が聞こえるな」  それを耳にするや、義父上の容色が転じました。
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