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第04話 禅譲の秋
木剣を打ち合う音が洛陽城武範殿の前庭に響き渡ります。
打ち合うは王弥と元海様。ともに着物をはだけられ、各所に生々しい痣を残しながら、その鋭気は離れた場にて侍る孤人をも打ち据えて参りました。
カン! とひときわ高い音を立て、両名の木剣が交わります。
「元海! 今日はもう少し粘ってくれよ!」
「今日こそ一本取ってみせるさ、阿豹」
「よく言った!」
易々と王弥が元海様を振り払います。
たたらを踏んだ元海様に向け、鋭く踏み込む王弥。狙うは胴薙ぎ。木剣にあってなお対手を両断しかねぬ一振りでした。
なんとか防ぐ元海様でしたが、元々崩れていた所に襲いかかる一撃は、更に元海様の備えを危うきものとします。木剣を手放しこそせずに済んだものの、王弥に対し、正中を晒すことになりました。
阿豹、そのあだ名の通りの獰猛なる笑みを浮かべ、王弥が狙いたるは、喉元狙いの突き。練武の場とは言え、いえ、練武の場なればこそ、王弥はその鋭き武を出し惜しみしませんでした。
元海様も、王弥の剣をある意味では信頼しておりました。王弥の踏み込みにあわせ、自らの肩を投げ出します。
王弥の顔に驚きが走り、しかしそれは忽ち愉悦の情に取って代わりました。
――などと語りますが、お恥ずかしながら、これらは後に元海様より伺った話に則っております。孤人がかの剣戟にて解し得たのは、王弥に振り払われた元海様が、一息もなせぬ間に王弥に組み敷かれていたことでした。
元海様が突きを読むであろうことを、更に王弥が読み、対処をなした、とのことです。
ボグン、と鈍い音が鳴りました。
「狙いは良かったがな」
倒れる元海様の腕をねじ上げる王弥。その剣は数歩先に転がっております。
決め手である突きを捨て、剣を手放し、懐に飛び込んできた元海様の勢いを逆手に取り、元海様の腕を絡み上げたのです。
傍目に見ても、元海様の肩があらぬ方向に曲がっていたのがわかりました。鋭き踏み込みと踏み込みとが噛み合えば、その一挙が侮れぬ威力を帯びるのは已むを得ぬことでした。
が、
「げ、元海様!」
往時の孤人が、それを易々と受け容れることができるはずもありません。傍らの茶を零したことにも気付けず、慌てふためき、両名へと駆け寄るのでした。
「騒ぐな、元達」
額に脂汗しつつも、元海様が仰ります。その低き声色は、むしろ孤人を落ち着かせんと図られていたのではないか、と思えてなりません。
「し、しかし……」
「武の行き着く先は、殺。肩のひとつふたつが何程か」
痛みに眉を顰めながらも、努めて元海様は穏やかに仰るのでした。
王弥は元海様より離れると「お守りの過保護にも困ったものだ」と一言、そして自らが持ち込んでいた酒瓶を呷ります。
「王弥! やり過ぎではないのか!」
「莫迦な。武とは痛みよ。痛みなくして、高まるものかよ」
この時も、孤人は王弥に対して何も言葉を返し得ませんでした。孤人はどこまで行っても文人にございます。武人の語る痛みなぞ解せる筈もありませんでした――もっとも、文人の言葉が余人を御し得ぬこと、これもまた痛みであると、後に気付くのですが。
近習が駆け寄り、元海様の外れた肩を嵌め合わせます。外れた折と同じく激痛の筈でしたが、唯々として元海様は受け容れられました。
巻布にて、腕周りが固定されます。
「此度こそは一本を取れると思っていたのだかな」
「逸り過ぎだ。豹は牙を突き立てるに、時の至るまで険気を殺す」
「敵わんな」
汗を拭き、はだけた上衣を改めて羽織りながら。王弥が、どこか愉しそうな笑みを浮かべました。
「だが、それも爪牙あってのことだ。鈍くはなかったぞ、元海」
「精進するさ」
慌てて膏薬の手配をする孤人を見て「何を大袈裟な」と王弥が、元海様が笑うのです。空回りしていることに気付かずにもおれませんでしたが、何かをせねば、と逸っていたのはよく覚えております。
前庭から涼風のよく届く武範殿上階に移り、改めて元海様、王弥、そして孤人の三名にて卓を囲みました。
「それにしても、元海。貴様には充分な声名がある。智謀もある。にもかかわらず、何故武を望む」
近習が出した茶になど目もくれず、王弥は自らの持ち寄った酒を呷るのでした。眉をしかめる孤人を、元海様が窘めてこられます。
「時宜は才に、ことのほか冷たい。武の重んぜられた漢朝の創業にあたり、智謀の臣、随何や陸賈は武功無きゆえに軽んぜられた。翻って、高帝亡き後の守勢の世ともなれば、武勇こそあれ知見の乏しい周勃や灌嬰は、政局より取り残された。いま天下は晋の元に収まりつつあるが、文武何れかに偏れば、変事の折には社稷の臣としての責務を果たし得なかろう」
「ほう」王弥が酒杯を持ったまま、にやりと口端を持ち上げます。
「揺らぐか、馬の天下は」
王弥が徳利を元海様に突き出します。元海様は言葉には応えず、代わりに徳利よりの酒を受けました。そして元海様、王弥、孤人の目は、洛陽城の中央、大いに賑わう南宮へと向くのです。
晋公・司馬昭が魏帝・曹奐を擁立して後薨去、爵位を継いだ司馬炎は人臣の極みたる王位に進爵。曹奐よりの禅譲の詔を二度固譲し、三度目に受諾。帝となりました。
南宮にては司馬炎登極の宴が盛大に催され、晋朝万年の栄華を祈念する言葉が溢れかえっておりました。
王弥よりの酒を、一息に飲み干されます。
「天下に安寧があれば、それで良いのだが」
司馬昭の手腕は、魏国中の晋国を他に並ぶ事なき雄国へと育て上げは致しました。なれど未だに、呉の地にて大勢力を保つ孫皓、塞外の民を糾合し大単于を僭称する禿髪樹機能など、司馬氏にまつろわぬ者らも多くありました。
これら残された朝敵を討ち果たすため、司馬炎が引き連れる勇将賢官、数多の顕才は、父より引き継いだ臣下。無論その多くは司馬炎と共に晋室の枢機に携わり、次なる世の主として司馬炎を尊んで参った事でしょう。なれど大いなる父公が振るった手腕とは、いやでも見較べられるものでありました。
「元海、そう言えば貴様は、何度か司馬炎に謁見しておったな。どうだ、貴様の目より見て」
「果断、ではないな。だが、しなやかではある。長らく魏国の内で育ってきた晋室は、既にして守勢の時期にある。こと社稷を保つのであれば、恐らく父御よりも巧みであろう」
「そうか。では、次の世は?」
ふたたび、王弥が徳利を突き出します。
やはり元海様は、何も語らず、杯を受けるのでした。
司馬炎の嫡子、皇太子・司馬衷。後に起こる皇族同士の権勢争い、いわゆる八王の乱のさなかに立つこととなる彼の者は、既にしてその暗愚さを宮中にても後ろ指さされておりました。
漢の国とて、高帝お一人でその隆盛を作られたわけではありません。むしろ皇后呂氏による簒奪の危地にすらあった中、後継たる文帝の手によって救い出される事で、ようやく孤人らの知る栄華が生まれたのです。それほどに、後継の存在とは、重いもの。
全てが終わった今だからこそ分かるのですが、禅譲の折、既にして晋は外戚らの手に没しておりました。中でも司馬衷の母の一族、楊氏と、司馬衷の妃の一族である賈氏。両氏の権勢は殊の外大きく、彼らは時に手を携え、時には反目し合い、晋の社稷を私せんと蠢くのです。
司馬氏の天命は、あるいは彼の者らが食い潰した、と断じてすら良いのやも知れません。
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