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第05話 短春
晋朝がなって後、孤人は三国志編纂をはじめとした義父上の職務を補佐することとなりました。なのでおよそ二十年ほどでしょうか、元海様の側からは離れております。故に、ふたたび見えるまでの元海様については、伝聞でしか存じておりません。
細君・呼延氏を娶られ、先主に恵まれたこと。また変事にて天涯孤独となった主上を養子に迎え入れられたことなどは伺っておりました。長じては元海様の利き剣となったお二方ではありますが、孤人の知らぬ間には、ただの父と子であった時期もあったのでしょうか。
ここで、少し孤人のことも話しておきましょう。生まれは元海様と同じく匈奴は屠各部、ただし属家のひとつ高氏の庶子ゆえ、貴種、と言うわけではありません。騎射を尊ぶ匈奴部族の中にあり、専ら猟書を好んでおりましたため、部人らとはなかなか折が合いませんでした。その中でただ元海様のみが孤人や、孤人の読む書に興味をお持ちくださっておりました。そして元海様が質として洛陽に遷されるとき「君にとっては宝の山だろう」と、孤人を伴にお誘いくださったのです。
洛陽は、元海様のお言葉通りの場でした。あらゆる賢、あらゆる智が集まるのが都であった、と申せましょう。同じく人の腐臭も多く集まるのには辟易甚だしくもありましたが、それも竹簡にさえ埋もれてしまえばあずかり知らぬ所となります。
見知らぬ文字を追い、心ときめかせているだけであった孤人です。貴き尚学の志、と余人より称されるのは過分な話ではありましたが、そう見做されていたことで義父上に見出され、あまつさえ養子にまで迎えて頂けたのですから、この点は皆々に感謝するべきなのでありましょう。
司馬炎が帝位に立ち、およそ十年。先に名を出した禿髪樹機能、そして孫皓の討伐をなし、遂に天下が晋の旗ひとつの元に纏まる日がやって参りました。為された覇業のその偉大さに、孤人もこの方寸にささやかな熱きを感じずにはおれませんでした。
とは申せど、いつまでも慶賀しているわけにも参りません。史書を編むとは、即ち大いなる晋朝の成り立ちをいかに万民に知らしめるかを伝える行いとも申せます。王氏、夏侯氏など、義父上以外でも史書を編まんと志す者がおりました。彼の者らの筆に負けぬよう、各地の史料、事跡を知る者よりの聞き取りなど、義父上の書により重みをもたらせるよう、方々を訪ね回る毎日でした。
また宮中にて書の編纂に携わっておれば、ただそれだけ、と言うわけにも参りません。後進の育成も、孤人に課せられることとなりました。
目眩もせんばかりの多忙な日々の中ではありましたが、多くの才知溢れた学徒と接する機会を得、いたく刺激を受けたものです。
中でも、際立って印象深かった人物がおりました。司馬氏一門きっての俊才と名高き司馬越、司馬睿。その両名に付き従う、琅耶の王導――石并州のお耳には、どれも苦く響く名にございましょうが、ご寛恕ください。彼の者らは、やはり在りし日にも傑出していたのです。
三名は、特に孤人が携わっていた三國志の時代に強く興味を懐いておりました。義父上の業績を語る、またとなき機でもあります。彼らの質問に対し、しばしば孤人は熱く語ってしまったものです。
「各々方が、三国で特筆に能う、と思う人物は何方であろうか」
ふと気まぐれに、三名に尋ねたことがありました。
――この辺りで、いちど断りを入れさせて頂きます。
晋朝にあれば、司馬姓を冠する多くの貴顕について語らざるを得ません。されど彼の者らを並べて姓名にて称せば、混同の畏れを免れることは叶いますまい。そこで爾後に語る、帝位に就いた者以外の司馬氏一門については、諱の後ろに司、と付けて呼ばせて頂きます。即ち司馬越は越司と、司馬睿は睿司と称します。
「魏武、曹孟徳」
逸早く答えたのは、越司でした。
「彼の者の貴賎を問わぬ人士の涵養は、己自身も決して貴からぬ身上に生まれた所に端を発しておろう。なれど彼の者は、覇たるを産むは名でなく、実であると天下に知らしめた。今上の元で社稷を輔弼するに当たり、我等とて魏武に倣い、名の虚実の先を見極め、晋朝の礎石たるの一を組み上げねばならぬ」
静かで、しかし烈気を伴った声。眼鋒鋭く見据えるは、天。隙あらば孤人にも論にて躍り掛からんとするかのようです。
越司の隣、柔和な笑みにて、その鋭き論を聴き留めるが睿司でした。折に触れては小さく頷きます。そして、越司の論が区切りを見せたところで、取り決めでもあったかのごとく、言葉を継ぐのです。
「礎石の一。まさしく我等が目指すべき所。故に、某は呉の張昭をこそ刮目すべき人物と見ます。孫堅、孫策両名が呉の地にて幕府を開き果せ、そして長らくの間この晋朝の敵足り得たのも、張昭が中原よりの官臣、呉越に住まう人士を束ね得たからこそと言えましょう。礎石を然るべく組み上げるためには、卓越した統領が求められます」
越司が不快そうに眉根を寄せます。そこへ睿司が、曖昧な笑みを向けるのです。不思議な間柄の二人でした。仲が良いような、悪いような。よく噛み合いはするようでしたが。
「睿。己では済士を束ね切れぬとてか」
「可、否の問題ではないのですよ。兄上の英賢に疑義の紛れる余地はありません。しかし、ひと一人の目には、おのずと限りがあります。ならば兄上は、某をいま一つの耳目となされば良いのです」
兄上、と呼んではおりますが、越司と睿司は兄弟ではありません。司馬昭、そして司馬炎が「一門を皆家族と思い、尊べ」と詔したに従っていたのです。
魏室を打ち立てた曹操の嫡子、曹丕。彼の者は兄弟間で骨肉の皇位争いをなしたため、血族を信じることができませんでした。故に一門を冷遇致しました。斯くして魏の宮中には曹氏間の紐帯が失われ、そこに司馬氏の付け入る隙が生じました。
司馬炎は、邪な手管にて玉座を手にしたことを痛いほど実感していたようです。なればこそ一門に曹氏の轍は踏ませるまい、そう考えたのでしょう。
睿司の発言に得心し切ったようでもありませんでしたが、とは言え越司もそれ以上の反駁はなしませんでした。代わりに、両名の後ろにて侍る、王導に目を転じるのです。
「王導。卿はどうなのだ」
促しを受け、まず王導は拱手を致しました。
越司、睿司は司馬氏一門でも特に顕名。その両名に侍ることが許されている、と言うだけでも王導がいかに重要な家門にあるかを示しております。
その王導は、
「愚臣は、蜀の伏龍鳳雛の明暗にこそ、強く心惹かれております」
言葉ぶりはさておき、徒に両名に阿る所もありませんでした。
越司が魏の創始者、睿司が呉の丞相を論うのです。魏の人物を上げれば越司に、呉の人物であれば睿司に坦することとなります。ならば両国外より人物を持ち出すは中立を宣ずるがごときもの。
「関張両名とは別の意味で昭烈の手となるべく期待された両名にはございましたが、片や忠烈の大宰相となり、片や巴蜀の片隅で土となりました。ただし、いずれにせよ両名は人事を全うせん、と戦い抜いております。その先にある結果に関わらず、愚臣もまた両名のごとく力を尽くし、晋室の礎石となりたく思います」
王導の物言いに、ふと過日の元海様を思い起こし、つい孤人の顔が綻んでしまうのでした。やはり如才なき者は、居る所には居るものです。
越睿両司の言を受け、素知らぬふりをしながらも、最終的には両名を立てる形での発言となす。孤人には到底なし得ぬ即興の、言葉を用いた舞い、とでも申しましょうか。
越司は幾分苦い顔を浮かべ、睿司は、その曖昧な笑顔を崩さぬままでおりました。
司馬炎死去前の、ある穏やかな日のことにございました。
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