第07話 八王乱 承――匈奴百騎

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第07話 八王乱 承――匈奴百騎

 八王(はちおう)の乱に話を戻しましょう。  洛陽(らくよう)入りし、司馬衷(しばちゅう)を廃位。帝位を僭称した倫司(りんし)ではありましたが、その動きを他の司馬氏が黙って見過ごす筈もありませんでした。司馬穎(しばえい)――穎司(えいし)を筆頭とした、倫司打倒の軍が立ち上がります。  とは申せど、その結束は決して固くはありませんでした。遥か天の彼方と見做されていた極位(きょくい)外戚(がいせき)の手で、宗室の手で、「ただの地位」にまで堕していたのです。誰もがどう他者を出し抜き、自らを極位に据えるか。目論むるは、そればかりでありました。  互いに疑心暗鬼ともなれば、その動きはどうしても鈍くなろう、と言うもの。元海(げんかい)様の率いる倫司軍にしてみれば、彼の者らを叩き潰すなど訳もない事でした。  ただし、倫司もこのまま洛陽に居れば、いつまでも狙われかねぬ、と判断したようです。司馬衷を連行、(ぎょう)へと帰還致します。  帰還後、鄴にて論功行賞がなされました。  この時勲功一等とされたのは、側近の孫秀(そんしゅう)。  ただし、孫秀がなしたるは、司馬衷が隠し持っていた、漢代より伝わる玉璽(ぎょくじ)を見つけ出したこと。無論、倫司登極の名分を得た、と言う意味では大功ではあるのですが。  一方で多くの血を流し、倫司台頭の原動力となった元海様らには、申し訳程度の恩賞しか出されませんでした。その行いが何を招くかに考えが及ばぬのですから、倫司も中々の太平楽である、と申すより他ありません。倫司討つべし、の謀議が脹れ上がるのを、どうして元海様が留められたでしょうか。  ここで、一度申し上げておきましょう。  はじめ元海様は、幕下の倫司打倒の機運を挫かんと、言葉を尽くしておられました。ただし、それは晋室への忠誠からではありませんでした。水面下で動く匈奴(きょうど)諸部との連携を目立たせたくなかったのです。  斯様な折、倫司洛陽入りの際には静観を貫いていた騰司(とうし)が動き出しました。騰司本人はともあれ、その配下が、かの王浚(おうしゅん)です。鄴内の不穏な動きを察知し、機到れり、と騰司に進言したのでしょう。鋭き戦局眼である、と申さざるを得ません。  北のかた、幽州(ゆうしゅう)に拠点を構えていた騰司は、その後背(こうはい)塞外(さいがい)の民、著名なところでは鮮卑(せんぴ)宇文(うぶん)部や(だん)部、そして烏丸(うがん)を抱えておりました。いずれも匈奴(きょうど)に劣らぬ凶猛(きょうもう)なる騎馬の民。しかし驍将祁弘(きこう)が、その恐るべき武にて諸部を鎮圧。更に王浚が硬軟交えた交渉にて彼の者らを服属なさしめておりました。  故事に照らせば、魏武(ぎぶ)曹操(そうそう)青州兵(せいしゅうへい)吸収を引き合いにすべきでありましょうか。低めに見積もっても、この頃の騰司の軍勢は突出していた、と申し上げるべきでありましょう。  騰司のこの動きを、倫司は大いに懼れたそうです。宮廷内では南遷(なんせん)の建議も持ち上がりました。  この動きを叱咤なされたのが、元海様でした。次のように、そのお言葉が残されております。 「陛下の威徳は(あまね)く四海に充ちております。何程の者が陛下のために命を捨てることを憚りましょうか。王浚など所詮ひよっこ、辺境の夷狄(いてき)を従えた程度で思い上がっているに過ぎませぬ。にも拘わらず陛下が鄴を下れば、未だ滅し得ぬ逆賊どもは、たちまちに陛下を侮りましょう。天下に覇を唱えるためにも、陛下はこの鄴にて王浚らを迎え撃つべきなのです。ただ一方では、并州(へいしゅう)の匈奴らが騰司に呼応しかねぬ情勢下でもあります。騰司らのみであれば、匹夫の専横と断ずれば済みましょう。しかし、そこに匈奴が加われば、決して侮れぬ武威を得ましょう。そこで陛下、どうか私を匈奴らの地にお遣わせ下さい。畏れ多い事でございますが、私めは匈奴の帥を拝命しております身。彼の者らを必ずや説得し、当方に引き入れてみせましょう。そして事成らば、王浚どもを脇腹より食い破り、その首をこの鄴へ持参致しましょう」  記録に残っているこの進言は、果たしてどこまで正しいものなのか分かりません。分かっているのは、この言葉に元海様の真意はまるで表れていないこと、そして倫司が元海様を愚かにも匈奴諸部に向け派遣したこと、であります。ともなれば一言一句のことごとくを信じるわけには参りませんが、それに類した言い回しにて倫司を説き伏せられたのは間違いなきことでありましょう。  元海様は、呼延翼(こえんよく)様率いる匈奴諸部に合流するや、即座に推戴(すいたい)を受け、匈奴大単于(だいぜんう)としての名乗りを上げます。即ち、「帝」をこれ以上奉じる気はない、と天下に宣ぜられたのです。  倫司の強勢は、元海様率いる匈奴騎兵にその淵源がありました。その匈奴騎兵が離脱した、ともなれば、以降の顛末を想像するのはそう難しいことでもなかろうか、と思います。  あえなく、倫司は滅びました。北より騰司に烈しく追い立てられたところに、南より越司の軍が強襲。倫司は殺され、司馬衷の身柄は越司の元に遷されました。  その後には、騰司、越司、元海様が争い合う事となりました。  そしてここに、匈奴に押さえ込まれていた鮮卑慕容(ぼよう)部が加わります。宇文部、段部より更に北方にて逼塞していたかの者らが、越司の支援を受け、急速に力を付けて参ったのです。
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