第08話 八王乱 転――漢を襲う

1/1
前へ
/17ページ
次へ

第08話 八王乱 転――漢を襲う

 孤人(こじん)が改めて元海(げんかい)様の幕臣となったのは、臣下よりの単于(ぜんう)推戴(すいたい)を元海様が受諾なされた後。ただし(かん)朝再建は未だ為されておりませんでした。  この点につきましては、明確に述べておくべきでしょう。孤人は、元海様の単于推戴なる功を疎んだのです。  幾許(いくばく)の春秋をこそ経ましたが、孤人が陋巷(ろうこう)蟄居(ちっきょ)する文弱の徒であるに変わりはありません。たとい元海様の号令の元といえど、文武百官を総べる器が孤人にあるとは到底思えませんでした。 「一番目立たぬ機を狙ったか。君らしいな」  拝跪(はいき)する孤人を、元海様はわざわざ玉座から降り、お出迎え下さりました。匈奴(きょうど)驃騎(ひょうき)数万余、漢人(かんじん)明賢数千余を従える、堂々たる覇王の、しかし孤人は只の旧知に過ぎません。過分な待遇と恐縮しつつも、(はなは)だ熱きを胸に詰まらせれば、涙を禁ずるは到底なし得ぬ業でありました。  とは申せど、旧交を温めんがために参ったわけではありません。元海様が天下に覇たるを扶翼(ふよく)せん、と志したのです。涙を拭うと、口許を引き締め、顔を上げ、元海様を見据えました。その深き眼差しに、かすかに惑いが生ぜられました。  敢えて構わず、孤人は口火を切りました。 「まずは拝命(はいめい)の儀、誠にお疲れ様でございました。時に大業の第一歩は既に成り、天下は単于の覇業、その行く先に注視しておりましょう。()らば、いまは速やかに単于の威徳(いとく)、その広大無辺たるを大いに示すべき、と愚考致します」  元海様、いえ、匈奴諸部を取り囲むは、何れもが容易く斬り伏せるも叶わぬ難敵ばかり。彼の者らを蕩尽(とうじん)せんと志すのであれば、祝辞を述べる暇すら惜しい。故に孤人は、主の許しも得ずに面を上げ、更には不敬も顧みず、性急とも言える上奏に打って出ました。  旧友の顔が、たちまち主の顔に切り替わりました。孤人の焦燥を、元海様は、十全にお汲み下さったのです。 「(しか)りである。ならば、がなすべきを述べよ」  速やかなる受容への歓喜と、ようやく愚考の試しの場を得たことと。血湧き肉躍るとは、恐らく斯様な折に用いるべきなのでありましょう。  かねてより孤人が抱えていた、万余の詞。みだりに洩らさぬ為にも、一度口許を引き締め、拱手致します。 「なすべきは、漢朝光復(こうふく)」  十余年もの間、抱いていたその一言を、遂に口外致しました。  元海様が息を呑まれたのを察します。 「――続けよ」 「単于の御意向、民庶(みんしょ)の安寧である、と愚考致します。()らば名にて実を牽引するが上策でありましょう。在りし日の漢とて、その末期(まつご)頽廃(たいはい)の極みに堕しておりました。魏晋(ぎしん)乱淪(らんりん)と較べたところで、そこに何程の差がございましょう。なれど(うずたか)く積み重なった春秋は、漢の名より腐臭を箕帚(きそう)致しました。民庶は百載(ひゃくさい)の覇の輝かしきをのみ見上げております。幸いにも、単于は漢室の皇統をお継ぎであらせられます。そも漢室に於いて、正嫡ならざるが極位を継げぬ理由とはなり得ません。文帝(ぶんてい)は庶子、光武(こうぶ)は傍流、昭烈(しょうれつ)に至りては更にその遍方(へんぽう)。にも拘らず、何れもが大いなる民心を得るに至りました。先人の有徳こそが継承の証であります。なれば単于に漢の宗廟(そうびょう)を継げぬ理由はございません。また、単于の元には、精強なる万億の暁勇(ぎょうゆう)が集っております。漢の名は、この大いなる武に大義をも授けましょう。さすれば単于の威徳(いとく)は、晋室が招いたこの混迷を打ち払う清風となりましょう」  幾分の早口上にはなっていたように思います。伝うべきを、余すところなく伝え切れたのでしょうか。述べ足りぬところはあったでしょうか。幾ら顧みたところで詮無き事です。なすべきことをなした。後は、主に全てを委ねるのみ。あるいは、刑場に赴く咎人(とがびと)とは、あの折の孤人のごとき心地なのやも知れません。  暫しの黙考、やがて、元海様が苦笑されました。 「恐ろしいな、元達。君の示す道は、転び方を間違えれば大逆ともなろう」 「(しか)りでございます。他ならぬ、単于以外にはなし得ぬことかと」 「言うてくれる」  元海様が壇上に戻られます。玉座に、深く腰掛けられました。 「天意とは、いかなる物であろうか。何ゆえ天下に塗炭(とたん)の苦しみを味わわせるのか。天ならざるこの窮身(きゅうしん)では、所詮無窮無辺(むきゅうむへん)の、更にその果てを覗き見るは叶わぬ。ならば、この頭上に広がるを我が天となすより他なかろうが」  元海様が、天を仰ぎます。  覚えず孤人も、それに倣っておりました。 「――(ちょく)が要るな、元達」  その、小さな呟きに。  時を得た。  孤人の気宇は、高まるのでした。    離石(りせき)にて匈奴諸部を従え、受禅(じゅぜん)の儀に臨まれる元海様。煩瑣(はんさ)なる式辞を滞りなくこなされ、紫衣(しい)(まと)い、文武百官に南面致します。孤人の起草した竹簡を広げ、堂々たる音声を以て、詔勅(しょうちょく)を読み上げられました。 「昔、太祖(たいそ)高帝(こうてい)はその神武を以て期に応じ、大業を開かれた。太宗(たいそう)文帝(ぶんてい)は明徳を重んぜられ、漢朝の繁栄を確固たるものになさしめられた。世宗(せいそう)武帝(ぶてい)夷蛮(いばん)を打ち払い、漢の威徳を更に大いなるものとした。中宗(ちゅうそう)宣帝(せんてい)は人士を広く募られ、宮中には顕才が多く集うに到った。祖宗(そそう)らの偉業は、三皇五帝(さんこうごてい)()()王、(いん)(とう)王、(しゅう)(ぶん)王の業にも勝るものであった。(しか)るに元帝(げんてい)成帝(せいてい)の世には多くの不幸があり、また哀帝(あいてい)平帝(へいてい)は玉座を碌々(ろくろく)温めることも叶わず崩ぜられた。為に賊臣王莽(おうもう)による篡逆(さんぎゃく)()を招くこととなった。そこへ世祖(せいそ)光武帝(こうぶてい)が聖武をもって漢の天を恢復(かいふく)なされた。顯宗(けんそう)明帝(めいてい)肅宗(しゅくそう)章帝(しょうてい)は光武の覇業を()け、漢朝の示す火徳は更なる安寧を得た。なれど和帝(わてい)安帝(あんてい)より後、皇綱は再び漸頹(ぜんたい)の憂き目に遭った。黃巾(こうきん)の賊は九州を嘗め尽くし、四海は乱れ、遂には董卓(とうたく)の暴虐を蒙り、更には曹操(そうそう)曹丕(そうひ)親子によって凶逆の変が為された。献帝(けんてい)の無念を、(しょく)の地に在った烈祖(れっそ)昭烈帝(しょうれつてい)が晴らさん、と立ち上がるも、皇阼(こうそ)の奪還はなし得ず、(あまつさ)懐帝(かいてい)には虜囚の辱めが為されてしまった。社稷(しゃしょく)淪喪(りんそう)されてより、四十余年が経つ。ここに到り、天は漢室に(もたら)された禍を(あわ)れみ、司馬氏宗族を相争わせんとお仕向けになった。ために黎庶(れいしょ)は塗炭の苦しみを味わうも、それを救う者はいまだ現れぬままでいた。いま、私は群公よりの推戴を受ける身となり、畏れ多くも三祖の業を継ぐ事となった。我が愚昧(ぐまい)を顧みれば、斯くなる大業を為さんと志すには戦惶(せんこう)留め切れぬ。但し漢室の味わった大恥(たいち)は未だ(そそ)がれてはおらず、社稷(しゃしょく)にも主無きままである。よって銜膽(せんせん)棲冰(すいひょう)し、群議に従い、我が業を務め上げるを、ここに宣ずるものである」  斯くして元海様は、漢を襲われました。  それはまた、司馬氏に対する明確な宣戦布告と呼ぶべきものでもありました。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加