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アカネの地を踏んで、あっという間に二週間が経過した。
不便な環境は、慣れてしまえばどうということもなくなった。いまだに地球の生活を思い出さない日はないが、少しずつ、気持ちの整理がついてきた実感はある。
暇を持て余した俺は、この二週間、ひたすらこの世界の共用語である英語の勉強と、剣の稽古に明け暮れた。
英語は、ギルドの酒場にいるマーズのところへ通って習った。マーズは俺が来るたび大げさに喜び、胸に俺の頭を埋め込まんばかりに熱く抱きしめて迎えてくれた。
マーズは教え方がうまかったし、どこに行っても聞こえてくる言語は全て英語だから、俺の英語の上達は想像を遥かに超えて早かった。
この二週間で、特別新しい英単語を覚えたわけではないが、日本語から英語への"変換速度"が飛躍的に向上した気がする。つまるところ、慣れというやつだろう。今ではうっかりすると日本語の方が危うくなることもあるぐらいだ。
一方で、空いた時間はひたすら剣の訓練に励んだ。向こうの世界でもこれほど熱心に鍛えたことはないと言い切れるほど、根を詰めて鍛錬した。というのも……アカネは恐ろしくやることがないのである。
取り立ててその二つ以外にやったことと言えば、ギルドから支給された最初の手当てで生活必需品を揃えたことぐらい。あとは、毎晩街の大衆浴場に行くのが唯一の楽しみだった。
代わり映えはなくとも、平和な二週間を過ごした俺は、今日から、国の中心から北西に七百メートルほど離れた地点に校舎を構える学園、《王立冒険者養成学園》に入学する。この日のために、これまで着々と手続きなどの準備を進めてきていた。
これから通学路となる道程を歩き、何度目かの路地を曲がって、いざ自分の通う学校を目の当たりにした俺は、その迫力に息を呑んだ。
雪のように白い、石造りの校舎。その巨大さは、俺の知る日本の学校の三倍は下らない。その周囲を瑞々しい庭園が彩り、その更に手前には広いグラウンド。隅の方には訓練用と思われる丸太人形が並んでいる。校舎の奥の方には、ちらりとだが、世界史の資料集で見た"コロッセオ"のような巨大建造物まで望めた。
さすがは、他国からも入学希望者があると言うだけあって、立派な学校だ。
学校と言えど、学生の年齢層は実に幅広い。マーズによると、俺より年下もいれば、三十代、四十代までザラにいるという。
俺の知る学校とは違い、この学園は入学や卒業のタイミングが定められていない。望めばいつでも入学できるし、規定の単位を全て取った上で卒業試験に合格すれば、いつでも卒業できる。新客は最初の一年のみ学費を免除してもらえ、その間にギルドから斡旋される仕事に慣れていき、生活のリズムを作っていくことになる。
鉄格子のような校門のそばに、事務室と警備員室を兼ねたような小屋がある。事前にマーズから教わった通り、その窓を緊張した面持ちで叩いた。ガラス窓が開いて、優しい笑顔で女性スタッフが入学の手続きをしてくれた。
事前にギルドから話を通してもらっていたこともあり、入学手続きは拍子抜けするほど簡単に済んだ。ギルドから預かった推薦状と引き換えに、名札と、制服代わりの外套、それから学生証をもらった。
『ウォーカー候補生 シオン・ナツメ』
ヒノキに似た材質の木札に、学生番号などと並んで、英語でそう刻印されている。これが学生証。俺は今日より、「ウォーカー候補生」と呼ばれる立場になる。
この学生証を提示すれば、ルールの上では、ギルドのごくごく初歩的な依頼を受注し、この国を守る分厚い壁の外に出ることが可能になる。無論、教官の同伴が必須だし、特別な理由がない限り、一介の候補生にそんな機会はほとんどない。
候補生とは名ばかりで、まだ俺は、単に修剣学校に入学しただけの一般人だ。これからたくさん修練を積み重ねていかなければならない。
それでも、俺の目標の、第一歩には変わりない。俺はもらった学生証を、大事に背嚢にしまった。
「ナツメ候補生は十六歳未満ですので、ジュニアクラスの配属です。校舎一階の、入り口を左に曲がって突き当たりの教室にお入りください」
上品に微笑んだ女性に会釈して、俺は言われた通り校舎に向かって歩き出した。もらった外套に袖を通し、靴箱のない玄関を抜け、紐靴のまま校舎の中に入る。
案内を思い出しながら歩き、間もなく、受付で言われた通りの教室を見つけた。扉に近づくと、中から、まだ幼さを残す、俺と近い年代の声が複数、楽しそうにはしゃぐのが折り重なって聞こえた。
途端に緊張してきたのをぐっとこらえて、意を決して扉を開いた瞬間、中の喧騒が嘘のようにピタリと止んだ。
居心地の悪い沈黙。教室にいた十数名の男女、全員が、直前までとっくみ合って遊んでいた連中までピタリと動きを止めて、俺の方を見ていた。
圧倒された。教室の中にいた人間の全てが、燃えるような赤い髪をしていたからだ。
「え……えーっと」
冷たい視線がチクチク刺さる。針のむしろに座らされた気分だった。ごほん、と乱暴に咳払いしたのは、教卓に座って本を読んでいた長身の男だ。
腰まで伸びたサラサラの長髪と、気品のある整った容貌。雰囲気こそ若々しいが、眉間の皺は彫刻刀でしつらえたように深く、年齢は四十路も間近と推定できた。
その男の髪も、炎のように赤かった。
「あー、キミ。その真新しい制服を見るに、新入生だな。校門前の女に、この教室に入るように言われたか?」
高貴で、どこか芝居がかったような声で問いかけられ、俺は口ごもりながら頷いた。男は小さく舌打ちをして、
「残念ながらキミの教室は真逆だ。玄関を入って"右"に曲がった突き当たり。ちょうどこの教室を出て、ひたすら真っ直ぐ進めばぶち当たるから行ってみるといい」
「はぁ……ありがとうございます。確かに"左"と言われた気がしたんですが」
「おや、"この世界の言葉"はまだ苦手かな? イントネーションが愉快だね、今度誰か教えてやりなさい」
どっと教室がわいた。俺は顔が火照るのを感じながら教室を後にした。
なんだか分からないが、ライトとレフトを聞き間違えてしまったのだろうか。いや、しかし、あの教室にいたのは俺と同じ年代の子どもばかりだった。ジュニアクラスというなら、あそこで正しいはずだ。
教室の外から、扉の上部に打ち付けられた札を見てみた。そこには確かに、「Jr.Class-《Flame》」と書かれている。
「やっぱりジュニアクラスじゃないか」
釈然としないながらも、俺はあの男の指示通り、回れ右して元来た道を引き返した。入ってきた玄関を横切って更に突き進んでいくと、だんだん校舎が薄暗くなってきた。茜色の光を校舎に入れるための窓が、少なくなってきたのだ。
本当にこの先に教室があるのかと不安になるほど、薄暗さの増してきたころ、果たして俺は一つの部屋の前にたどり着いた。打ち付けられた木札を見ると、「Jr.Class-《Weed》」とある。確かにここも、ジュニアクラスのようだ。人数の関係で、クラスが二つあるのだろうか。
「あの……もしかして新入生?」
「うわっ!?」
突然背後から声をかけられて、俺は飛び上がるほど驚いた。振り返れば、俺と同い年くらいの、金髪の大人しそうな少年が、ぎこちない笑顔を浮かべて立っていた。
「そ、そうだけど」
「やっぱり。今日入ってくるって聞いてたから、みんな楽しみにしてたんだよ。その……僕はハルク。みんなからはハルって呼ばれてる。これからよろしく」
差し出された手と少年の顔を交互に見てから、俺は慌ててその手をとった。澄んだ青い目の、綺麗な顔立ちの少年だった。
「こ、こちらこそ。俺はシオン。よろしく、ハル」
「ねぇ、もしかして向かいの教室に間違えて行かなかった?」
「あぁ、行った行った」
「やっぱり。僕も入学当時に全く同じことしたよ。恥をかかされただろ?」
ハルは気の毒そうに眉をひそめた。
「ジュニアに限らず、この学校は能力別にクラスを二つに分けるんだ。優秀な者は《紅葉》クラス。そうでないものは、《青葉》クラス」
「なんだ、そうだったのか。けど、じゃあなんで受付の人は俺にフレイムの教室を……」
「学校の規定ではそうなってるんだよ。入学者は最初、フレイムの担当教官が能力をはかることになってる。けど、今の担当教官に代わってから、フレイムは現地民限定のクラスになっちゃったらしい。受付のお姉さんはそんなこと知らないからね」
あの、全員が赤髪の異様な光景を思い出す。あそこにいたのは、全て、このアカネで生まれた人間だったのか。
「嫌な人たちだよ。僕ら地球人のことバカにしてる」
「……俺の知ってるナチュラルは、すごくいい人だけど」
「運が良かったね。そんなのごく稀だと思うよ。この世界のこと何も知らない地球人は、どうしてもナチュラルに頼らざるをえないだろ? 長い歴史の中でナチュラルが優位に立つのは必然だよ」
言われてみれば、そうなのだが。俺は妙に憂鬱な気持ちになった。俺が絶望から立ち直れたのは、この世界の人々の温もりに触れたからだ。さっきフレイムの教室で浴びた、人を見下すような視線には、だから、けっこう傷つけられた。
「辛気臭い話しちゃったね。ほら、立ち話もなんだから」
ハルに促されるまま、俺はウィード――「雑草」と名付けられた教室に、重い足取りで入っていった。
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