茜色の異世界

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 マーズが何を言っているのか、俺は最初全く理解できなかった。 「あたしはアカネで生まれたの。父と母は地球人だけどね。あたしみたいなのは現地人(ナチュラル)って呼ばれてる。あたしにとっては、この世界で生まれたことの方が当たり前だし、空は赤いのが当たり前。青い空なんて、考えただけで不気味」  俺はこの時、不思議なほど自分が()めていくのを感じていた。  この世界で生まれ、この世界で生きてきたマーズの人生を想像したのだ。俺より長い時間をこの世界で確かに生きて、彼女は今、俺の前に立っている。それを認めることは、この世界を認めることのように思えた。  街を行き交う人々の中にも、ナチュラルと呼ばれるアカネ出身者がいたはずだ。そして俺のような地球人も、彼らと手を取り合い、こうして立派な文明を築いて生き延びてきた。  その歴史を(たず)ねることは、今を受け入れることのように思えた。  俺は立ち上がり、カウンターの横の窓に歩み寄った。城の向こう側は農場になっていたようで、見渡す限り黄金色の小麦畑が、風に吹かれて波打っていた。 「赤い空……よく見るとけっこう綺麗ですね」  青空のことを蒼穹(そうきゅう)と言うが、ならばこの景色は紅穹(こうきゅう)とでも言うべきだろうか。小麦畑と血色の空という組み合わせは、俺の常識からかけ離れていて落ち着かないが、目を奪われるほどの美しさが、確かにある。  俺の隣に歩いてきたマーズは、形のいい目を丸くしていた。 「この空のこと、初日からそんな風に言ってくれる人、ほとんどいないのよ」 「気の迷いかもしれません。マーズさんがこの世界で生きてきたこと想像したら、なんだかそう思えただけで。あなたの髪の色みたいで綺麗だなって」  隣に立つ彼女の方を見て、正直にそう思った。街の人にもちょくちょく緋色の髪を見かけたが、もしかしたらナチュラルはその髪色で生まれてくるのかもしれない。  マーズの髪は、窓から差し込む茜色の光を受けて鮮やかに、淡く発光していた。比喩ではない。アカネの空の光を受けると、ナチュラルの髪はこれほど美しい反応を起こすのか。  その美しさに見惚れていると、マーズは不思議な顔になって一瞬固まった後、くすくす笑った。 「ちょっとドキッとしちゃったじゃない。あまりオトナをからかうもんじゃないわよ、坊や」 「い、いや、そんなつもりじゃ!」 「あは、なんだ天然なの? 今さら照れちゃって」  愉快げに目を細めて俺を観察するマーズに、惑わされそうでパッと目をそらした。 「ん? あなたそれ、モンスターの血じゃない? まさかモンスターに会ったの?」  俺の下着に付着した紫色の血液に気づいたマーズが目を見開いて言った。答えようとした俺の脳裏に、あの怪物が男の首を噛みちぎる光景が鮮明にフラッシュバックした。 「……会ったのね。よく生きてたわ」  俺の顔色を見てか、彼女は労わるような声でそう言った。 「カンナって女の子が、助けてくれたんです。ここまで送ってくれたのもその子で……」 「あら、運が良かったわね。可愛いでしょう? あの子」  含み笑いで見つめられて、なす術なく赤面した。 「カンナに助けられたのかぁ、なら安心ね。まぁ、君の様子見てると大丈夫そうだわ」 「どういうことですか……?」 「自殺する心配はないってこと」  ギョッとして、体が固まった。 「仕方ないことだけど多いのよね。せっかく五体満足で保護されたのに、1週間以内に自ら命を絶つ人。けどカンナに助けられた男は、誰一人そんなバカなことしないの。なんででしょう?」 「……」 「恋は偉大ね、命さえ救う」  美女は歌うように嘯いた。俺は沈黙して、席に戻った。  マーズはその後も色々なことを教えてくれた。  人類が最初にアカネに飛ばされたのは、少なくとも三千年以上前であること。  あえなく全滅を続けていた人類が、やがて毎年数人ずつの生き残りを出し、後世に知識と知恵を伝え、その繰り返しで少しずつ少しずつ、生存者を増やしてきたこと。  なぜそんなことが分かるのか。俺の疑問にマーズは含み笑いを浮かべ、「いいもの見せてあげる」と言うなり立ち上がった。  奥の引き出しにどこからか取り出したカギを差し込んで、何やら汚い紙の束をうやうやしく取り出し、俺の前に持ってくる。それは--あまりにボロボロで、不恰好であることに目をつむれば、どうにか「本」と言える形状を保っていた。  分厚い象皮のような素材の赤い表紙の四隅から、黒ずんだり破れたりしているページの端が顔を出す。紙のサイズさえ不揃いで、一目で手作りだと分かる。  表紙には濃厚な墨で『Monster Guide』と妙に鬼気迫るような達筆で書き殴られているが、そのタイトルと思しき墨文字も擦り切れ、解読も難儀な有様である。  俺は目の前で異質な存在感を放つ遺物から、途方も無き人々の涙と、血の臭いを嗅いだ。  震える手を伸ばし、その分厚い表紙をめくってみる。一ページ目は正確な四角形ですらない、黄ばみ黒ずんだボロボロの紙だった。そのザラザラとした材質に、昔小学校で作らされた和紙を思い出した。  そのページの中ほど。滲む黒インクで、手書きのサインがあった。『Marcus Domitius』。  その下に十行ほどの文章が書き連ねられているが、走り書きであるだけでなく、英語のような文章で書かれているため読むのは不可能だった。  思わず硬直していたその時、マーズの白く細い指がその文の先頭を差した。それはゆっくりと右に這わされていく。そしてそれと同時並行で、彼女の桜色の唇が動く。 「『マルクス=ドミティウス。地球歴・西暦308年よりアカネの地を踏む。ローマの都を、置いてきた妻と娘の顔を思い出さない日はない。しかしこの地獄の先住民達は、私を頼ってくれている。私の持ち得た知識と技術を必要としてくれている。彼らを見捨てることはできない。そして私も、見限られたくはない。私はここに、あの化け物達の生体を知る限り、記す』」  翻訳してくれたようだった。その血の滲むような筆跡を目で追っていると、マルクスという男の生々しい肉声が、マーズのソプラノの声に途中から取って代わったかのような錯覚を覚え、俺は彼の思念が宿ったかのような目の前の書物から目を離せなかった。 「彼はこれとは別に随筆じみたものも書いていてね。それによると、彼はローマ帝国に住んでいた植物学者だったらしいわ。地球の歴史には詳しくないんだけど、かなり大きな国だったみたいね」  ローマ帝国。そのぶっ飛んだ単語に俺はまたも目眩を覚えた。いったいいつの話だ、それは。  確かローマ帝国の時代は教会が権力を握り、知的好奇心が全否定されていた。そんな時代で植物学者とは、よほど酔狂な輩だったのだと思われる。  概してそういう異端は、頭抜けて優秀なものだ。 「彼は、この世界で初めて"紙"を発明した人間よ。それにより、人類は飛躍的な進歩を遂げた。これはマルクスが仲間と協力して完成させた、かつては世界に一冊しかなかった本。『モンスター図鑑』」  言葉を失った俺は、マルクスの遺産をそっと撫でた。  ページを掴み、いくらかめくってみる。図鑑の丁度半ば辺りのページを開いたところで、俺は息を詰まらせた。  見開きの右側に、舌を巻くほどの繊細な筆使いで色鮮やかに描かれた怪物の似顔絵がある。苔色の体毛で覆われた巨体。黒い強膜に真紅の瞳が"三つ"、今にも喰いかかってきそうな形相で俺を睨みつける。  総毛立つ。それはまさしく、今日俺を襲った三つ目の化け物だった。 「『先住民曰く、名は"ゴルダルム"。生息地域は狭く、調査の限りでは個体数も少ない。湿度の高い森林地帯に出没する。好物はズバリ、人肉である。凄まじく機敏に動く。うなじの部分に太い血管が収束していることが分かっている』」  またも、マーズが翻訳してくれた。俺の気を何より引いたのは最後の一文だ。うなじに太い血管が収束、つまりそこを切りつければ大量の出血が見込める、と。  それは即ち、うなじが弱点である、ということに他ならない。  今日、カンナは俺を助けるためにゴルダルムを斬った。彼女が斬ったのは、紛れもなく、うなじ── 「さっきまであたしが語った歴史は、マルクスが広めた製紙技術によって残されるようになった"文献"に記されていたものよ」  俺は改めて目の前のモンスターガイドを見つめた。今ならこれの価値が分かる。この本が救った命の数も。 「それから先は、言わば人類の高度成長期。"情報"が人々の命を救ったの。生存者は年々増え続け、目覚ましく発展していった。地球の文明レベルが上がるごとに、色んな知識を持った新客が入ってくるようになって、そこからはもう怒涛の勢いね」  たとえば新客の中から農業に精通する者が現れれば、食糧を安定して確保できるようになる。建築、医療、化学--あらゆる知識と技能は、マルクスの発明によって"継承"を可能にした。  わぁっ、と。今まで耳に入らなかった背後の喧騒が、思い出したように膨れ上がった。ハッと振り返ると、小汚い酒場で大勢の人間が酒を呑み、肉を食い、肩を組んで笑顔を爆発させている。 「……すごいな、人間って」 「うんうん。この時代に召喚されたこと、幸運に思うといいわ。今では街の外に出ない限り、モンスターに食われることなんて滅多にないぐらいには平和なんだから」
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