第五章 金平糖の精

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12月17日(Wed)午後1時  コートを羽織って小山真紀は警視庁の建物を出た。桜田通り沿いの街路樹の前で煙草を吸う矢野一輝を見つけた。 矢野は真紀を見ると微笑んで煙草を携帯灰皿に捨てる。 「へぇ。ポイ捨てしないんだ?」 『そりゃあ天下の警視庁の前でポイ捨ては出来ないでしょう』 「あのね、人を使って私を呼び出すのいい加減止めてくれる?」 『俺が直接呼んでも真紀ちゃんは来てくれないだろ』 「当たり前でしょ。今日の呼び出しに使ったのは総務部の子?」 『せいかーい。総務のトモミちゃん。誰かさんが全然相手にしてくれないからこうやって他の子で遊んじゃうんだよ?』  肩をすくめて歩く真紀は矢野の側で立ち止まる。身長が日本女性の平均身長よりも高い彼女は少しだけ目線を上げて矢野を睨みつけた。 身長が平均よりも高いと言うことはそれだけ男との目線の距離も近付く。この男の側に寄る場合は常に注意を払わないと何をされるかわからない。 「……で? 何の用?」  わざと矢野の最後の言葉を無視して用件を促す。こんなやりとりはこの二人には珍しくない。いつもの光景だ。 それまでヘラヘラと笑っていた矢野の顔つきが瞬時に変わった。 『新しいカオスの幹部が現れたんだろ。スパイダーって奴』 「スパイダーについて何か知ってるの?」 『スパイダーはネットの世界では有名なんだ。確か10年くらい前かな、スパイダーって通り名の奴がネット荒らしをしてるって噂があってね。スパイダーが企業の機密データを盗んで倒産に追い込んだって話も聞いたことある。2001年に起きた桜井物産の裏金データ流出事件、真紀ちゃん知ってる?』 「桜井物産?」 真紀は記憶の海に潜る。そんな名前の企業が存在していた記憶は微かにあるが、2001年と言えば真紀は警察官に成り立ての頃で多忙を極めていた。 『俺も当時はそんな事件に興味もなかったからテレビのニュース流し見してるだけだったんだけど、桜井物産の裏金のデータがネット掲示板に貼り付けられたんだ。どうやらハッキングされて盗まれたデータらしい』 「そのハッキングをしてデータを盗み出した犯人がスパイダーってこと?」 『そう言われてる。結局ハッキングの犯人は捕まってない。桜井物産は裏金問題や身内のゴタゴタもあって経営難になり倒産。今はそんな企業があったことすら皆の記憶から消えてるよな。たった7年前のことなのに』  あったものがなかったことにされる。企業も人も、記憶から忘れ去られるのは一瞬だ。 『スパイダーの年齢、性別は不詳、わかっているのはハッキングの腕が桁違いってこと。まさかそいつがカオスにいたとは思わなかった』 「情報屋のあなたでもスパイダーの手掛かりは掴めないの?」 『今のところはまったく。スパイダーだけじゃなくカオス関係の情報は掴むだけで命懸けだから簡単に手出しはできないさ。手出しするとね、こうなるわけ』 矢野は自身の口元を指差した。口元には生々しい傷痕がある。 彼がどうして体を張ってまで情報を得ようとするのか真紀は知らない。矢野に関してはまだまだ知らないことだらけだ。 『じゃ行こうか』 「どこに?」 『昼飯。俺まだなんだ。めちゃくちゃ腹減ってるんだよね。真紀ちゃん付き合ってよ』  それまで真面目ぶっていた矢野の口調が一転していつもの砕けた軽いノリに切り替わる。 「どうして私があなたのお昼に付き合わなくちゃいけないのよ」 『いいじゃん。スパイダーの情報あげたんだし、そのお礼ってことで』 「あれくらいの情報なら警察でも調べられます!」 『まぁまぁ。今度はもっとデカいネタ持ってくるよ。ね、旨いラーメン屋見つけたんだ。真紀ちゃんラーメン好きだろ?』 (なんで私がラーメン好きなこと知ってるのよ。そうか、早河さんが教えたのね) かつての同僚の早河仁と矢野は何故か兄弟のように親しい。真紀はニコニコ笑っている矢野を恨めしく睨んだ。 ラーメン好きとしては旨いラーメンと聞けば断るのも惜しい。昼食もまだ済ませていない。  彼女はひとつ溜息をついた。 「わかった。でも美味しくなかったらもう二度とあなたとは会わないからね」 『それは絶対ないない。味の保証はするよ。あっちに車停めてあるから行こう』 (なんだかいつもこの人のペースに乗せられてる気がして悔しい)  意気揚々と歩き出す矢野の後ろを真紀は追った。彼の隣に並び、鼻唄を歌う矢野の横顔を一瞥する。 「その口でラーメン食べられるの? 傷に沁みるんじゃない?」 『真紀ちゃんが“あーん”ってしてくれるなら十杯でも百杯でもいくらでも食べられる。なんなら口移しでも……』 「しません」  頭上に広がる冬の青空。風は冷たいが太陽のぬくもりにホッとする。 街路樹から落ちた枯れ葉が道路の上にひらひらと舞う。まるでバレリーナのように枯れ葉達は軽やかなステップを刻んでいた。
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