第二章 霧雨、のち波乱

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 なぎさが平井と作業をしている頃、玲夏と蓮はホテルのラウンジでブレイクタイムを楽しんでいた。 玲夏はストローを使ってアイスティーをかき混ぜた。グラスに入る氷が涼やかな音を鳴らす。 「あの人、社長にそんなこと頼んでいたのね」 『俺としては協力者が増えるのは大歓迎だけど、玲夏の元カレって過保護だな』 玲夏と蓮の話題は今夜から加わる潜入調査の“助っ人”のことだ。玲夏は眉間を寄せた。 「その元カレって言い方、やめて」 『事実だろ?』 「人から元カレって言われるのは嫌なのよ」 『まだ好きなのか?』  蓮に聞かれても玲夏はすぐには答えなかった。彼女はケーキを品よく口に運び、視線を窓の外に向けて押し黙る。蓮は空になったホットコーヒーのカップを押しやり、手持ちぶさたにメニュー表を眺めていた。 「……どうかな。よくわからない。別れてからの2年間はあの人のことを考えないようにしていたから」  ホテルの最上階のラウンジから見える空は地上で見上げている時よりもはるかに近い。天から零れ落ちる神の涙が地上に届く様を玲夏は目で追った。  蓮が何かを言おうと口を開きかけた時、玲夏の名前を呼ぶ声が聞こえた。二人は一斉に声がした方を見る。 爽やかな微笑をたたえた男がテーブルの側に立っていた。 「あら、黒崎さん」 『奇遇ですね。一ノ瀬さんもご一緒で……神戸で撮影ですか?』 彼の名前は黒崎来人。職業は俳優、玲夏と蓮と同業だ。 「スペシャルドラマのロケなの。黒崎さんもこっちでお仕事?」 『僕は京都ロケで太秦(うずまさ)に。今は空き時間なのでこっちにいる友人に会いに来たんです』  玲夏と社交辞令程度の挨拶を交わして黒崎はラウンジの奥に消えた。 『俺、アイツ嫌い』 黒崎がいる間は終始無言だった蓮は彼の姿が見えなくなると吐き捨てるように呟いた。玲夏が吹き出して笑う。 「子供みたいなこと言わないの」 『ああいう気取った奴は好かないんだよ。どれが本当の顔かわからない薄気味悪さがある』 「役者は騙すのが仕事だからね。いつも別人の人生を生きてる。自分の本当の顔を知っているのは演じている本人だけよ」  日々、別人の人生を生きて自分のものではない人間の感情を表していると時々わからなくなることもある。 本当の自分とはどんな人間だったのだろう?  幾つもの女優の仮面の下にある本当の顔。ただの女性としての本庄玲夏とはどんな人間だった? 本庄玲夏を一番よく知っているはずのが実は一番、本庄玲夏を知らないのではないか。 役になりきって演じていると本当の自分が見えなくなる。なんとも滑稽なことだ。
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