第二章 霧雨、のち波乱

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   ──東京──  煌びやかな蝶が闇に舞う、夜の銀座。この辺りではナンバーワンの高級クラブ〈メルシー〉の重厚な扉を早河は開けた。 早河を出迎えたのはメルシーのママのサユリ。この街の女帝として有名な女性だ。寛雅(かんが)な紫色の着物が彼女によく似合っていた。 「早河さん。お久しぶりですね」 『ママは今日も綺麗だね。はい、これ』 早河は手土産の袋を彼女に渡す。丁重に袋を受け取ったサユリは口元に手を当ててはにかんだ。 「いつもありがとうございます。これはパティスリーKIKUCHIのレモンパイじゃないですか。ここのレモンパイはいつも行列で並ばないと買えないとか」 『並ぶのも待つのも俺の得意分野。みんなで食べてよ』 「お心遣いありがとうございます。戴きますね」  彼女は早河の手土産をウェイターに渡し、彼を店の奥に案内する。ソファーに落ち着いた早河が煙草を出す。サユリは宝石付きのライターで早河の煙草に火をつけた。 『ミレイ、いる?』 「はい。呼んできますね」 品よく会釈してサユリが下がる。その姿はまさしく夜の街に美しく舞う蝶だ。  サユリが下がってから数分後に赤いロングドレスを纏った女が現れた。 「ご指名ありがとうございます。ミレイです」 ミレイはピンク色のルージュをひいた口元でにっこり微笑んだ。彼女は早河の隣に腰を降ろす。 『元気だったか?』 「早河さんが最近全然お店に来てくれなかったから元気じゃなかったよ。でも今は早河さんに会えて元気百倍」 『単純だな』 「女は好きな人の顔が見れたらそれだけで幸せになるの。何にします?」 『水割り』 早河の注文を受けてミレイは慣れた手つきでグラスに氷を入れる。 『女優の仕事は最近どうだ?』 「もうね、さっぱり。最近はモデルの仕事ばかりだよ。早河さん、何かいい仕事ない?」 『エキストラだけどセリフのある仕事ならいくつかある。紹介してやってもいいが、代わりにミレイに聞きたいことがある』 「なぁに?」  ミレイはウィスキーを注いでグラスの中をマドラーでかき混ぜた。この店でホステスとして働くミレイには女優になる夢があり、細々と芸能活動をしている。 『津田弘道って記者知ってるよな? 前にお前と仕事をしたことがある奴だ』 「ツダ、ヒロミチ……ああ、うん。思い出した。その人なら雑誌の撮影で一緒になったことがある。記者だけどカメラマンもやってたの」 ミレイが早河の前に水割りのグラスを置いた。早河はミレイが作った水割りを一口飲む。どこで飲む酒よりもメルシーで飲む酒が格別に旨いと感じる。 『津田って男はミレイから見てどんな印象だった?』 「うーん……グラビアの撮影だったんだけど、その津田って人が私や他の子達にエッチなポーズさせようとしてきて、私は途中で仕事断って帰って来ちゃったの。粘っこい視線の嫌な感じの人。思い出しても鳥肌立っちゃう」 ミレイは大げさに身震いした。ミレイのように女優を目指して地道に活動しているタレントには水着のグラビア撮影は避けては通れない。 『撮影の時に津田に変なことされなかったか?』 「私は大丈夫だったけど、他の子はどうだろう。エッチな写真撮ってそれをネタに女の子ゆすってるって噂もある。早河さんは津田さんを調べてるの?」 『今抱えてる案件で津田の名前が浮上したんだ』  水割りを飲んだ後に煙草を吸う。一気に体内に流れ込む煙草とアルコールが早河を夜の街の住人に仕立てていく。 「津田さんのことでひとつ、スペシャルな情報教えてあげよっか?」 『スペシャルな情報?』 「アフター行ってくれるなら教えてあげてもいいよ」  ミレイは意味深に笑って早河の腕に手を絡めた。 『まだ仕事残ってるからアフターは無理。ボトル入れるからそれじゃダメ?』 ミレイのふわふわと巻いた髪に指を絡ませ、このような場面でしか使わない甘い声で早河が囁く。 上目遣いで懇願するミレイとの駆け引き。夜の街に出ればこんな駆け引きは日常茶飯事。 「えー。せっかく久しぶりに会えたのに。ここじゃない所でゆっくりお話しようよ」 『また今度、ケーキでも食べながらゆっくりしような』 「……早河さん、まさか私のこと、まだ高校生だとでも思ってるの? 私、もう23歳よ。ハタチ過ぎた女が二人でゆっくりしたい場所はカフェでもケーキ屋でもないのよ?」 不満げに口を尖らせた彼女が早河の肩に小さな顔を寄せた。 『カフェでもケーキ屋でもないなら遊園地か? 俺はジェットコースターは苦手なんだが』  早河はあくまでもしらばっくれる。ミレイの誘惑も早河には効果がない。 「もうっ。早河さんの馬鹿! ドS! 意地悪! 私は早河さんとならベッドインコースもOKなのになんでいつもいつもかわすのよぉ」 『ベッドインコースは本当に好きな男とだけにしておけ』 「その好きな人が早河さんなんですよー。はぁ。早河さんには敵わないなぁ」 早河から離れたミレイはクスッと笑った。 「私も一応はこの店のナンバー3なのよ。アフターだって他のお客様を私からお誘いすることはないの。そんな女からアフターに誘われて、しかも他のお客様には許可しないベッドインコースまで付いてきてるのに飛び付いて来ないなんて。わかってたけど変な人。まさか早河さん、本当は男が好きなんじゃ……」 『勝手に妄想して俺をそっちの世界の住人にするな。俺の中のミレイはメルシー人気ナンバー3のミレイじゃなく、家出して俺に補導された17歳の影山(かげやま)深麗(みれい)のままなんだよ』  水割りのグラスを空にした。少し頭がぼうっとする。アルコールだけではなく、薬でだましだましに誤魔化した風邪の影響かもしれない。 「影山深麗も23歳になりましたよーだ。仕方ないなぁ。本当にボトル入れてくれる?」 『何でも好きなもの頼めよ』 「今度、ケーキ食べ放題と遊園地一緒に行ってくれる?」 『23の女が行きたい場所なら連れて行ってやる。でもジェットコースターには乗らないぞ』 頑なにジェットコースターを拒む早河の隣でミレイはいつまでも笑っていた。この明るさがミレイの持ち味だ。 「ジェットコースターそんなに嫌いなんだ。可愛いー! 可愛い過ぎる早河さんに特別サービスで教えてあげるね」  再び早河に寄り添った彼女は早河の耳元で囁いた。 「津田さんは速水杏里のヒモなのよ」
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