第三章 豪雨、すなわち嫉妬

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   ──東京・銀座──  午前零時が近付くにつれて夜の街は賑わいを増す。銀座の高級クラブ、メルシーでは一流企業の重役や大物財界人が華やかな蝶の群れに囲まれて豪遊していた。 VIP席にいる早河の周りにも早河が指名したミレイ以外にも何人ものホステスが彼を囲んでいる。早河の隣を独占していたミレイも今は同僚に遠慮して彼から離れた席で早河と同僚のお喋りを聞いていた。 (お店に早河さんが来てくれるのは嬉しいけど、イケメンだからすぐに人気者になっちゃうのよね)  早河の隣には同僚のモモとユリカが寄り添っている。早河は愛想良く二人に笑いかけていて、彼に長年の片想いをしているミレイとしては複雑な心中だった。 (ヤキモチなんてダメ。早河さんも仕事、モモとユリカも仕事。みんな仕事でやってるんだから。早河さんの彼女でもないのに私って勝手だなぁ) 彼の笑顔が仕事用の作り笑いだとしても自分以外の女と親しげに話している姿は見たくない。 「ミレイちゃん、モモちゃん、ユリカちゃん」  透き通った綺麗な声で名を呼ばれてミレイは顔を上げた。この店のママ、サユリが早河の席の前で丁寧に両手を揃えて立っていた。 「白井様のヘルプについてちょうだい。早河さんのお相手は私がするわ」 ミレイは早河を見た。早河はサユリと視線だけの意志疎通をしているようで、明らかに自分はこの場にいてはいけない雰囲気を感じた。 (前から思ってたけど早河さんとママの関係ってなに? 私がここで働けるようにしてくれたのは早河さんで、ママも昔から早河さんを知っていて……不思議な関係の二人よね)  ミレイは名残惜しく、同僚達を連れて早河の席を辞した。  ミレイ達が去った後にサユリが早河の隣に座った。彼女の所作ひとつひとつが若いホステス以上に洗練されていて美しい。 『ミレイ達を追い払った理由は?』 「人聞きの悪いことを。私は早河さんとお話がしたかっただけですよ」 『ママが俺と二人で話をしたい時は何か魂胆がある。昔からそうだろ』 「ふふっ。そうだったかしら」 彼女は素早く早河と自分の水割りを作り、彼と乾杯した。サユリは三日月型に目を細めて早河を見つめる。 「それにしても、あなたも立派になったわね」 『堕落したの間違いじゃねぇの? 天下の警視庁の刑事が今はしがない探偵やってんだから』 「私はあなたが十代の頃から見てきてるのよ。あの頃に比べればあなたは随分、人間らしくなったわよ」 『人間らしくねぇ。確かに高校時代は今よりも投げやりなとこがあったかもな』  ミレイ達のいない、早河とサユリの二人だけの空間では二人とも砕けた口調に変わっていた。 『ママは芸能界のネタに詳しいよな?』 「それなりには」 『女優の速水杏里関係でスキャンダルになりそうなネタない? 世間にバレると速水杏里の立場が危うくなりそうな、ゆすられる元になりそうなネタ』 「速水杏里ねぇ。あの子はグラビア時代が絶頂期だったと言われてるくらいに今は鳴かず飛ばずだものね」 テーブルに並ぶフルーツの盛り合わせからサユリはパインを選び、スワロフスキーのついた銀のピックを刺して品よく口に運ぶ。 「清原竜は知ってるでしょ?」 『ごめん、誰?』 「あなたって人は……。自分の興味のない分野にはとことん疎いわね。清原竜は80年代の映画の名監督として名を残した清原勲の息子で、若手の映画監督よ。去年の日本アカデミー賞の監督賞を受賞して騒がれていたからニュースで彼の名前を聞いたことはあるはずよ」  政治、経済、裏社会の情報には常にアンテナを張っている早河だが、興味のない芸能界の情報にはさっぱり疎い。 「そんなボンクラでよく女優さんとお付き合いできたわねぇ。逆に疎いからよかったのかしら?」 『はいはい。で、その偉大な名監督の息子の清原ナントカって若手監督がつまりは速水杏里と?』 「噂ではね。ただ、清原竜には妻子がいる。もしネタが本物なら不倫ということになるわね。速水杏里は生き残りをかけた勝負どころでしょうし、清原竜も若手のホープ。世間に知られると二人のダメージは大きい。世間様は他人の粗相(そそう)には厳しく、自分の粗相には甘い、身勝手な人間の集まりだもの」 速水杏里の不倫スキャンダル。このスキャンダルをネタに津田が彼女をゆすっているとも考えられる。 「私はね、不倫をする女を馬鹿だとは思えないの。男と女は正論では語れない。理屈なんて通用しないわ。欲しい時はどうしたってその人が欲しいものよ。私が武田を欲しくなったのも理屈では有り得ない。理屈で考えれば、誰があんなご都合主義の女好きな男を好きになるものですか」  サユリは早河の支援者であり父の友人でもある現職の財務大臣、武田健造の愛人だ。武田とサユリは20年来の付き合いらしく、早河も高校時代からサユリと交流がある。 「可哀想なのは当事者の子どもよ。不倫は当事者達は自己責任。でも大人の欲に振り回されて家庭を壊された子どもにだけ、私は罪悪感を感じるわね。不倫をするのなら相手の子どもに殺される覚悟がないと、してはいけないのよ。社会的にも肉体的にも殺されたくないのなら人のモノには手を出さなければいい」  サユリは武田との関係に後悔はないだろう。あるとすれば、武田の娘への罪悪感か。 穏やかに微笑するサユリの胸中は読み取れない。  早河がなぎさと出会った頃、彼女は不倫の恋に苦しんでいた。不倫相手に子どもがいたのかは今となっては知る由もないが、なぎさも相手の子どもに殺される覚悟まではなかっただろう。 そこまでの覚悟を持って不倫を行える人間はきっと少ない。サユリくらいなものかもしれない。 「そうそう、一輝は元気にしてる? あの子は最近顔見せないけど」 『アイツは神戸に出張。助手の助っ人に行かせた』 「へぇ。話は武田から聞いてるのよ。あなたと一輝と助手の女の子、三人で上手く探偵稼業やれているのね」 矢野一輝は武田健造の甥にあたる。 「今度、一輝と助手の女の子もここに連れて来なさい。私もあなたの助手さんに会ってみたい」 『矢野はいいけど……ママが俺の助手に会ってどうするんだ?』 「私はあなたの親代わりよ。お、や、が、わ、り。あなたが大事にしている助手がどんな子なのか見てみたいじゃない?」  サユリの不敵な微笑みにはいつも勝てない。話の雲行きが怪しい。このまま長居をすればなぎさとのことを根掘り葉掘り聞かれそうだ。 早河はわざとらしく腕時計に視線を落とす。 「お帰りならミレイ呼んでくるわね」 サユリには早河の考えなど見抜かれている。まだまだ夜の女帝には敵わない。  キャッシャーの男にクレジットカードを渡して支払いを済ませたところで赤いドレスのミレイが席に帰って来た。悲しげに目尻を下げるミレイは飼い主の外出を寂しがる子犬のよう。 「もう帰っちゃうの?」 『ごめんな。次は仕事抜きで会おう』 「うん! 遊園地とケーキ食べ放題ねっ」 ミレイは彼にしがみついた。早河はミレイの背に手を回してドレスから覗く滑らかな素肌に触れる。数秒間、早河の腕にいたミレイが顔を上げた。 「ご来店ありがとうございました」 悲しげな子犬ではなく、メルシー人気No.3の顔に戻ったミレイに見送られ、早河は店を後にする。  並木通りを歩いて御門(ごもん)通りに出た。通りには車が連なり、ヘッドライトの群れが眩しかった。 早河が捕まえようとしたタクシーは先を越されて壮年の男と若い女が乗り込んだ。 やはりメルシーでタクシーを呼んでもらえばよかったと舌打ちした彼は自分が乗るつもりだったタクシーを目の前で見送る。壮年の男と若い女の行き先は考えなくとも見当がついた。  男と女は正論では語れない……サユリの言葉が脳裏をかすめた。
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