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──神戸──
早河への電話連絡を終えた矢野は自分の部屋、605号室を出た。他の撮影スタッフは七階から八階に部屋が集中しているが、飛び入りで参加の矢野は六階の部屋しか空いている部屋がとれなかった。
このホテルの構造は一階が結婚式のチャペルと駐車場、二階は旅客ターミナル、三階にフロントとロビーがあり、客室は六階から十三階。最上階の十四階にはラウンジがある。
まずエレベーターで三階に降りた。ホテルのセキュリティ面をもう一度チェックしておきたい。
更紗模様のカーペットが敷かれたロビーには噴水があり、東洋的なインテリアが配置されている。五階まである吹き抜けが開放的だ。
ソファーに一ノ瀬蓮が座っていた。優雅に脚を組む様は絵になる。
『おお、一輝。おはよ』
『蓮さん、おはようございます。早いですね』
『撮影期間はいつもこうなんだ。てっぺん越えても朝の5時には目が覚めちまう』
蓮とは昨日が初対面だが、意外にも早くに打ち解けた。蓮の人当たりの良さは社交性に自信のある矢野を上回る。実力派と評判の名俳優はおおらかで謙虚な人物だった。
『なぁ、一輝となぎさちゃんの上司ってどんな奴?』
『上司? ああ、早河さんのことですか?』
早河のことを上司と言われてもピンとこない。なぎさにとって早河は上司でも、自分と早河の関係は上司と部下とは少し毛色が違っていた。
『早河さんは朝が苦手で煙草とコーヒーがあれば生きていける変な人ですよ』
『ははっ。なんだよそれ』
『あの人、朝はまじに不機嫌なんですよ。母親に無理やり起こされてふて腐れてる子供みたいな』
矢野は蓮の向かいに腰を降ろす。
他のソファーには朝のコーヒーを楽しむ老夫婦がいるだけで、ホテルスタッフ以外にロビーを行き交う者はいない。蓮もコーヒーを飲んでいた。
撮影チームの朝食は7時に五階の宴会場となっている。一般の宿泊客は四階のレストランが朝食会場となっているため、人の流れは四階に向く。ロビーに人がまばらなのも必然だろう。
『なんでそいつと玲夏が別れたか聞いてる?』
『大体のことは。玲夏ちゃんと別れた当時は早河さんも仕事で色々あって、恋愛どころじゃなかったんでしょうね』
『ふーん。じゃあ嫌いになって別れたわけじゃないのか』
蓮の冴えない表情の意味に気付いても、矢野は気付かないフリをしてそっと秘密に蓋をした。
早河と玲夏が実際にはどんな別れ話をしたのか矢野は知らない。
男同士であっても長年の友人であっても、本人が語りたくないことは無理に聞き出さない。それが矢野と早河の関係だった。
しばらくロビーで蓮と雑談を交わし、矢野はエレベーターで五階に上がる。五階には撮影チームの朝食会場となっている貸切の宴会場がある。
彼は黒縁の伊達眼鏡をかけた。これが矢野のON、OFFの切り替えスイッチ。
(この仕事モードの真面目な俺を見れば真紀ちゃんも俺に落ちてくれるんだけどなぁ)
座敷の宴会場にはすでにADの平井透がいた。平井は用意された朝食の数のチェックをしている。
矢野は座敷の上がり口から平井に声をかけた。
『おはようございます。確か……一ノ瀬さんの付き人の……』
『矢野です。今日もよろしくお願いします』
矢野と平井は互いに会釈し合う。平井は作業に戻り、矢野は靴を脱いで座敷に上がった。
座敷には長机が並べられ、回りに座布団が配置されていた。机には役者とスタッフのネームプレートがあった。誰がどこの席に座るか厳密に決められている。
朝食は二段の重箱に詰められて用意されている。玲夏の席の重箱に見た目には不審な点はない。本音は中身を開けて料理に妙な細工がないか確認したいが、平井がいるこの場ではそこまでは出来ない。
湯呑みは各人の席に下に伏せて置かれていた。用意されたポットは3つ、急須は各テーブルに二つ。
(ポットと急須は共有、もし玲夏ちゃんに毒を盛るとしたら狙うのは湯呑みか、割り箸か……)
平井の見ていない隙に玲夏の湯呑みを素早くチェックした。何かが湯呑みに塗られている痕跡は見当たらない。
セットで置かれた割り箸にも異常はなかった。ひとまず安堵して湯呑みと割り箸を元の位置に戻す。
玲夏に届けられたあの手紙は早河が預かっている。矢野も現物を目にした。
手紙には〈殺しにいく〉と殺人予告も同然の脅しが書いてあった。差出人は本当に玲夏を殺すつもりなのか。
(真紀ちゃんに聞いた女物の整髪料と犬の毛も気になる。あと速水杏里の不倫スキャンダルか……。心証として真っ黒なのは速水杏里だよな)
平井の行動をさりげなく監視するために上がりがまちに立っていた矢野は肩を軽く叩かれて振り向いた。
見慣れたなぎさの笑顔があり、張り詰めていた矢野の神経が和らぐ。
「おはようございます」
『おはよう。よく眠れた?』
「あんまり……。なかなか寝付けなくて」
なぎさは目頭を揉んで苦笑いしている。あくびを噛み殺す彼女は言葉通り寝不足気味に見えた。
『今日はマネージャーの山本さんも来るから少し楽になるかな。無理しないようにね』
「はい」
『お二人は前々からのお知り合いですか?ずいぶんと親しげに話していらっしゃいますよね』
矢野となぎさの様子を見ていた平井が話に割り込んできた。
『ええ、まぁ。本庄さんと蓮さんは同じ所属事務所の親しい間柄ですから、付き人同士の僕達も何かと交流があるんです』
当たり障りない回答で平井の詮索をやり過ごす。人懐っこい笑顔を浮かべるこの男が容疑者のひとりであることを忘れてはいけない。
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