第三章 豪雨、すなわち嫉妬

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 兵庫県警神戸中央署の刑事達がホテルに到着したのは通報の10分後だった。  一同は事件現場となった宴会場の隣の部屋に移動した。披露宴などで使用される大広間にはテーブルクロスがかけられていない剥き出しのテーブルが並んでいる。 関係者達は思い思いの席に座り、平井が倒れた状況を刑事に事細かに尋ねられた。 『……そうすると、亡くなった平井さんが宴会場で朝食のチェックをしている最中にその場にいたのは矢野さんと秋山さんの二人ということですね』  神戸中央署の野崎晋太郎警部は矢野となぎさに鋭い視線を向けた。矢野の推理通り、毒物は平井の湯呑みの底から検出された。 (この馬面刑事、俺となぎさちゃんを疑っているのか?) 野崎の視線が好意的ではないことを感じた彼は心の中で溜息をついた。 野崎が矢野となぎさのテーブルに歩み寄る。獲物を見つけた時の獣の目をした野崎の視界には矢野となぎさしか映らない。 『あんた達のどちらか、または二人で共謀して平井さんの湯呑みに毒を入れることはできたわけだ』 『あのさぁ、刑事さん。平井さんの席には平井さんの名前入りのネームプレートが置いてある。すでに朝食が用意された後に宴会場に忍び込んで平井さんの湯呑みに毒を仕込むことは誰にでもできたんだ』 野崎の短絡的な考えにうんざりして、矢野は真っ向から彼を睨む。朝食準備の段階で平井と一緒にいた、それだけの理由で犯人にされてはたまらない。 『確かに誰にでも平井さんを殺害する機会はある。ホテルのスタッフが宴会場に朝食の準備をしたのが6時10分頃、平井さんも一緒に準備を手伝ったらしい。準備を終えたスタッフが宴会場を出たのが6時30分頃、矢野さんが宴会場に来たのが……』 『6時50分頃だ』  6時40分頃まで三階のロビーで蓮と雑談をし、非常階段の位置やホテルの内部のセキュリティを調べた後に宴会場に向かった。矢野が宴会場に着いたのは50分くらいだろう。 『朝食準備が終わった6時30分から40分頃まで平井さんは宴会場を離れてフロントに行っていたこと確認されている。この6時30分から6時40分の10分間、宴会場は無人だった。その間に何者かが宴会場に忍び込んで平井さんの湯呑みに毒を仕込んだ』 「あのぅ……そんな危ない橋を渡るようなことをしなくても湯呑みに毒を入れることは出来たんじゃないでしょうか?」  この場にそぐわない可愛らしい声で、遠慮がちに発言したのは撮影チーム最年少の沢木乃愛だ。役者もスタッフも刑事も、大広間にいる全員の視線が乃愛に集まる。 『あなたは……沢木さんでしたね。今のはどういう意味です?』 「私、推理小説が好きでよく読むんですけど、毒は最初から湯呑みに入れてあったってことはないですか? ロシアンルーレットのように、たまたま毒入りの湯呑みが平井さんに当たってしまっただけで平井さんを狙ったとは限らないのではないかと……」 『つまり、朝食のセッティングの段階で毒はすでに湯呑みに仕込まれていて、犯人は平井さんではなく無差別に誰かを狙った、そう言いたいのかな?』 「あの、そういう考えもあるかなぁと思っただけで……」 野崎の乃愛に対する口調や態度はずいぶんとソフトな対応だ。無差別と言う言葉が出るとあちらこちらで、か細い悲鳴が上がった。 (あの馬面、無差別殺人の可能性を指摘されたからってそれを口に出して関係者怖がらせてどうするんだよ) 野崎のやり方に矢野の苛立ちが募る。上野警部や真紀ならば関係者の性別や年齢によって態度を変えることもなく、むやみに関係者を怖がらせるやり方もしない。 (最初から湯呑みに仕込まれていた線も捨てがたいが、俺はやっぱりピンポイントで平井さんを狙ったとしか思えない。毒を仕込む機会は平井さんが宴会場を離れてフロントに行った10分間……)  宴会場が無人になった10分間は偶然訪れた空白の時間だ。もし平井がフロントに行く用事がなく、宴会場を離れなかった場合、犯人はいつ湯呑みに毒を仕込むつもりだった? どこかで平井の行動を見張っていない限り、どの時間帯に宴会場が無人になるか知り得ない。 (平井さんがたまたま宴会場から離れたから……待てよ? 本当にだったのか?) 無人の10分間は犯人が作り出した空白の時間だとしたら……? 『とにかく、矢野さんと秋山さんには警察までご同行願えますかな?』  野崎の優しい声色はかえって不気味だ。母親の旧姓で呼ばれたなぎさは顔を強張らせ、矢野が立ち上がって野崎と相対する。 『どうして俺達が警察に行かないといけないんですか? 物的証拠もないのに任意同行ですか?』 『今のところ疑わしいのはあんたと秋山さんだ。それに平井さんが倒れた時のあんたの対応がずいぶんと冷静で手慣れているように見えたと、ここにいる皆さんが証言しているんだよ。死体を見れば動転するのが普通の人間、でもあんたは有難いことに現場保存まできっちりとしていたなぁ。よく口も回る、今もここにいる誰よりも冷静そうだ。……お前、何者だ?』  ドスの効いた野崎の声が響く。矢野と同じテーブルにいるなぎさや蓮、玲夏は矢野と野崎の一触即発の空気に息を呑んだ。 野崎の脅しにも怯まずに矢野は口元を斜めにして微笑する。身元を調べたいなら好きにすればいい。早河探偵事務所のことや財務大臣である伯父の情報もいつかは野崎に知られるだろう。 『俺はただの付き人ですよ』 『……ふん。まぁいい。あんたの素性はじっくり探ってやる。秋山さんも一緒に来てもらいましょう』 「ちょっと待ってよ! 彼女は私の……」 「玲夏さん、いいんです」  なぎさは野崎に抗議の声をあげる玲夏を制して立ち上がる。 自分達が玲夏に届いた例の手紙の差出人を突き止めるために潜入調査をしていることは公にはできない。刑事に素性を明かすのならばドラマ関係者がいない場所の方が都合がいい。 なぎさの意図を汲み取った玲夏が口をつぐむ。蓮も歯痒そうに矢野となぎさを見ている。  矢野となぎさを連れて行こうとする野崎のもとに若い刑事が駆け寄って来た。部下と内密な会話をしていた野崎の表情が険しくなる。 わざとらしく咳払いをした野崎は一同に向けて言葉を放った。 『えー……皆さん聞いてください。平井さんが泊まっていた部屋から毒物の入った容器を発見しました。容器からは平井さんの指紋も検出されています。これは殺人ではなく、平井さんは自殺したのだと思われます』  再び大広間に衝撃が走った。隣の席同士で噂話をする者達、困惑して顔を伏せる者、反応は様々だ。 『刑事さん。自殺だとしたらこの二人を警察に連れていく必要はなくなりましたよね?』 挙手をした蓮が野崎に確認する。野崎はもう一度咳払いをして、矢野に近付いた。 『……命拾いしたな』  部下を連れて大広間を出る野崎警部の背中を矢野は睨み付ける。どうせ野崎はこの後に自分の身元を調べるだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。 『一輝、どうした? 浮かない顔してるな』 『釈然としないと言うか、引っ掛かるんですよ。部屋に毒物の容器があったからって自殺と断定するのも、わざわざ皆がいる前で湯呑みに毒を仕込んで自殺するのも……。これはそんなに単純な事件じゃない』 矢野の疑問に、なぎさも蓮も玲夏も誰も答えられない。四人はそれぞれ黙り込んで平井の死の真相に考えを巡らせた。
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