第三章 豪雨、すなわち嫉妬

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 まだラウンジで過ごしていると言った乃愛を残してなぎさは先にラウンジを出た。玲夏の様子が気になり、彼女の部屋がある十一階でエレベーターを降りる。 エレベーターホールのソファースペースに北澤愁夜がいた。 『あれぇ、秋山さんじゃん』 「どうも……」 会釈して彼の横を通り過ぎようとしたが、北澤の長身な体躯に行く手を遮られた。 『せっかくだから少し話そうよ』 「いや、あの……今から玲夏さんの部屋に行くので……」 北澤のこれまでの印象はハッキリ言って最悪だ。撮影現場でも女とイチャつく彼は初対面でラブシーンを目撃してしまった一ノ瀬蓮よりも軽くてチャラチャラしている。 『じゃ、連絡先教えて。東京戻ってから二人で会わない?』  ジリジリと詰め寄る北澤に後退りしたなぎさは彼の整った顔を平手打ちしたい気分だった。 一ノ瀬蓮も加賀見泰彦も北澤愁夜も、香月真由の言葉を借りればこの現場には「うんざりするほど女好きが集まっている」、真由の言葉に同意しかない。 (このドラマの俳優達は揃いも揃って……! 良いのは顔だけかっ! 俳優だからって、イケメンだからって何しても許されると思うなよー!) 「今は付き人の仕事を覚えるので精一杯で、そういうのはちょっと……」 『芸能界のことなら俺が教えてやるよ。ね、俺の部屋でゆっくり話そう?』 (まずい。このチャラい男から何とか逃げないと……) なぎさの腕を掴んだ北澤は狙った獲物を狩る獣、なぎさは捕捉された哀れな小動物。 『きーたーざーわくん? そんなところで何してるのかなー?』  北澤の体越しに一ノ瀬蓮が通路に立っているのが見えた。舌打ちした北澤が蓮を睨み付ける。 『一ノ瀬さんこそ、そんなところで何してるんですか?』 『君がどんな手で女口説いているかの見物?』 蓮がこちらに歩いてくる。彼の長い脚が北澤となぎさの前で止まった。 『けど、彼女に手を出すのは止めてもらえる?』 『ああ、なるほど。この子すでに一ノ瀬さんのお気に入りってわけですね』 『そう。だから返してねー?』  なぎさの腕を掴む北澤の手を払い除けた蓮がなぎさを抱き寄せた。 (ええっ? ちょっと一ノ瀬さん何してるんですかっ!) 肩を抱かれて狼狽するなぎさに蓮は優しく笑いかける。“心臓を撃ち抜かれる”とはきっとこういうことだ。 (うわぁ……イケメンの不意討ちの微笑みは心臓に悪い。私の心臓がズキュンって音しましたよ? なんなのこの少女マンガのような展開は……) 『付き人に手を出してるのは一ノ瀬さんだって同じじゃないですか』 『俺はいいんだよ。俺のお気に入りは玲夏のお気に入りでもある。俺以外の男がこの子に手を出せば玲夏が怒るよ? 北澤くんも、現場で主演女優を怒らせるようなことはまさかしないよね?』  無言の攻防戦の末、北澤が大袈裟に溜息を漏らす。彼はエレベーターの呼び出しボタンを押した。 『なんか萎えた。一ノ瀬さんのお古を狙うほど女に困ってませんから』 『杏里ちゃん大事にしろよー』 『余計なお世話です』  到着したエレベーターで北澤は上階に昇っていった。この上は客室とラウンジしかない。大方、ラウンジにでも向かったのだろう。  北澤がいなくなったエレベーターホールで蓮に抱き締められた。 (なになになにっ! なんなのこの状況っ!) 確かに軽くてチャラいが、人気、実力共に一流俳優の一ノ瀬蓮に抱き締められているこの状況をどう受け止めればいいかわからない。 「一ノ瀬さん……もう離してもらっても大丈夫ですよ?」 『もう少しこのまま』 彼は甘えるようになぎさの髪に鼻先をつけている。北澤に迫られた時は嫌悪感しか感じなかったが、蓮に抱き締められても不快感はなかった。 (乃愛ちゃんの部屋って十階だったよね? 十一階じゃなくてよかった。けど北澤さんには変な誤解されたなぁ) こんな現場を乃愛に見られたらショックを受けるに決まっている。まず、蓮の女であることがまったくの事実無根だ。 『なぎさちゃんの上司が心配して一輝を助っ人に来させた理由がわかった気がする』 「え?」 『危なっかしい、方向音痴、隙あらばすーぐ男に口説かれてる。撮影中に加賀見さんにも口説かれてただろ。目が離せないっつーか、今のだって俺がいなかったら北澤に食われてたぞ』  諭す口調で言う蓮はなぎさの頭に自分の顎を乗せている。恐る恐る触れた彼の背中は温かく、大きかった。 「ごめんなさい……」 『よしよし。知らない人にはついていってはいけませんよ?』 「ついて行ってませんし、北澤さんは一応知らない人ではないと思います」 『例え話。んー。でも気持ちいいな。なぎさちゃんの体、抱き心地最高』 「……変態……」 言葉とは裏腹に抱き付く蓮の手つきに嫌らしさは感じない。彼のぬくもりは天国にいる兄と同じような、優しさだ。 『人気俳優に向かって変態なんて言うのなぎさちゃんくらいだ。玲夏の部屋行くの?』 「はい。様子を見に行こうかなって」 『俺も暇だから一緒に行くよ。一輝がさ、なんか裏でコソコソやってて忙しそうなんだ』 「矢野さんは多分、平井さんのことで動いているんだと思いますよ」  玲夏の部屋は十一階の西側。二人は西側の通路に向かった。
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