第三章 豪雨、すなわち嫉妬

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 605号室の部屋で矢野一輝は携帯電話に接続したイヤホン越しに警視庁刑事の小山真紀と話をしていた。 {やっぱりダメ。兵庫県警が自殺で片付けようとしている事件を私が殺人事件として捜査するのは無理がある。越境捜査になるから県警から正式な協力要請がないと動けない} 『だよなー。うん、ごめん。今の頼みは忘れて。真紀ちゃんが俺のために始末書ものになるのは俺も嫌だから』 飴色のデスクには矢野の愛用のノートパソコンが置かれ、彼の指は忙しなくキーの上を滑る。 {別に矢野くんのためじゃないわよ。もし平井が他殺なら殺人犯がその中にいるんでしょ? 私は玲夏となぎさちゃんが心配なだけ} 『二人は俺が守る。俺だけじゃなく、こっち側の味方に一ノ瀬蓮もいるしね』  キーを打つ手を一旦休めて、傍らに置いたコーヒーを飲んだ。 ホテルの部屋に常備されているコーヒーは有名な飲料メーカーの製品だ。それでもEdenのコーヒーに比べれば味が劣るのは仕方ない。 {その一ノ瀬蓮だけど、本当に彼を信用して大丈夫なの? もしかしたら玲夏に一番近い人間が犯人かもしれないのよ} 『確かに敵は味方の中にいることもあるだろうけど、一ノ瀬蓮は信用していいと思う』 {どうして?} 『なんとなく。情報屋の勘』 {その勘で動くところ、早河さんと同じだね} 真紀が笑っていた。好きな人の笑顔を想像するだけで柄にもなく体が熱くなる。 (真紀ちゃんにはとことん骨抜きだな) {さっきからカタカタ音が聞こえるけど何してるの?} 『何してると思う?』 {パソコン?} 『そう。ハッキング』 {……はぁ?} 彼女のすっとんきょうな声がイヤホンに響いた。 {ハッキングって、矢野くん何やってるのよ!} 『いやー、神戸中央署のパソコンをね、ちょっと覗かせてもらおうと思って。あの馬面刑事じゃ情報流してくれなさそうだから』 {無茶苦茶なことして……逮捕するよ?} 『いいよ。俺を逮捕しに神戸まで来いよ。夜景が綺麗に見えるスイートルーム予約して待ってる』 口調は軽いが、矢野の両手10本の指がキーの上で止まることはない。 {馬鹿じゃないのっ? 警察のパソコンをハッキングするなんて重罪よ?} 『だから逮捕しに来てよ。惚れた女にならワッパかけられても文句ない。逮捕の前に神戸でデートしよっか。三ノ宮行って買い物して中華街で飯食べて、ハーバーランドで夜景見てスイートルームにお泊まりコースでどう?』 {……私も忙しいの。神戸には行きません。いい? 絶対にバレないようにやりなさいよ?} 『俺の心配してくれて嬉しいねぇ』 {はぁ? 違います! 矢野くんがヘマして捕まったら玲夏となぎさちゃんに迷惑かかるでしょう。それだけ。じゃあねっ}  一方的に言い終えて真紀は通話を切ってしまった。矢野は不通になったイヤホンを耳から外して口元を上げる。 『照れちゃって、可愛いなぁ。……さて、やるか』  真紀との電話で緩めた口元を引き締めて彼は目付きを変えた。ハッキングで神戸中央署のデータベースに侵入して捜査状況を探る。 予想通り、神戸中央署は平井の死を自殺として処理するつもりだ。  詳しい解剖結果は出ていないが、平井を死に至らしめた毒物は筋弛緩剤として病院や大学の薬学部にも置いてあるものだった。 その毒物は少量でも体内に入れば骨格筋を麻痺させて呼吸困難を起こし、最後は窒息死する。 (病院や大学に忍び込めば手に入れられる物か。今はネットでも裏取引があるしなぁ)  データベースを閲覧すると、平井の湯呑みについての記載があった。湯呑みに残されていた指紋は平井透の右手5指及び左手5指のみ。 (湯呑みにあったのは平井の指紋だけ?)  先ほどホテルの料理長に確認したが、客が使用した湯呑みはまず手洗いで洗い、食洗機にかけてから保存用トレーに並べるらしい。 並べる際は手が滑って湯呑みを落とさないために手袋を使わずに素手で並べると言っていた。 当然、湯呑みにはしかるべき箇所に調理場の人間の指紋がつく。しかもホテルスタッフが朝食準備で各自の席に湯呑みを配置したにも関わらず、平井の湯呑みには彼の指紋残されていない。 平井の湯呑みにはついているはずの調理場の人間の指紋やホテルスタッフの指紋がなかった。  形式的にあの宴会場にいた全員の指紋採取と全員分の湯呑みの指紋検出も行われている。関係者の名前の横に、誰の指紋が湯呑みのどこに付着していたのかが書かれていた。 矢野となぎさの湯呑みからは湯呑みを使った本人の指紋以外にも調理場や朝食準備をしたスタッフの指紋も検出された。そうなると、なおさら平井の湯呑みだけが彼の指紋しかなかったことが不自然だ。 (どういうことだ?) 彼はパソコンの画面を凝視する。  本人以外の誰の指紋もついていない湯呑みを使った人間が平井の他にもうひとりいた。 湯呑みの持ち主の名は、一ノ瀬蓮。
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