第三章 豪雨、すなわち嫉妬

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 矢野が蓮の携帯に電話をかけると、蓮は玲夏の部屋に居ると言う。矢野は六階の部屋を出て十一階の玲夏の部屋に向かった。 1103号室の玲夏の部屋はキングサイズの大きなベッドがあり、シングル部屋の矢野の部屋よりも広かった。玲夏、蓮、なぎさ、矢野の四人が集合しても充分にスペースがある。  矢野が湯呑みの件を伝えると三人はそれぞれ戸惑いの表情を見せる。最も驚いているのは蓮だ。 『えーっと……話がよく見えねぇんだけど、俺と平井さん以外の湯呑みにはベタベタと他の奴らの指紋がついているのに俺と平井さんの湯呑みにだけは本人の指紋しかなかった?』 「つまり蓮と平井さんの湯呑みだけ誰かが指紋を拭き取ったってことになるの?」 『そう考えるのが妥当だと思います。じゃあどうして蓮さんと平井さんの湯呑みだけ指紋を拭き取る必要があったのかって話になりますが……毒入りの湯呑みは最初、蓮さんの席にあったんじゃないかと』 ベッドに腰掛けて腕組みをしていた蓮は唖然としている。 『あの毒入り湯呑みは俺の湯呑みだったってこと?』 『あくまでも仮説です。犯人……ここでは犯人Aと仮定しましょうか。犯人Aは朝食準備が終わって平井さんがフロントに行っている隙に無人になった宴会場に入って蓮さんの湯呑みに毒を仕込んだ。ここまでが犯人Aの行動です』  矢野の話をなぎさがメモ書きにしてまとめている。矢野はなぎさのメモの進捗(しんちょく)具合を見て、また話を始めた。 普段は事件の調査報告をする早河や矢野の話をなぎさが事務所のホワイトボードにまとめる役割をしている。こうしていると、いつもの早河探偵事務所のようだ。 『次に犯人Bが宴会場が宴会場に来ます。Bの仕事は毒入りの蓮さんの湯呑みと平井さんの湯呑みをすり替えること。念のため手袋をしていたかもしれませんが、すり替えた二つの湯呑みはハンカチで指紋を拭き取っておいた。そうすると蓮さんと平井さんの湯呑みにだけ、ホテルスタッフの指紋がないことの説明がつきます』 「犯人は二人いるってことですか?」 メモをとっていたなぎさが顔を上げた。矢野は首肯する。 『そして犯人が二人なら狙われたのも二人。犯人Aの狙いが蓮さん、犯人Bの狙いが平井さん……これが俺の仮説です』  矢野の仮説の説明が終了したタイミングで、全員が息をついた。それは安堵ではなく、困惑の溜息。 「蓮、命を狙われる心当たりは?」 『心当たりって言われてもなぁ。このドラマの関係者で俺を毛嫌いしてる奴は北澤くらいしか浮かばねぇけど、北澤に殺されるほど恨まれる覚えはないぞ』 『まだ北澤さんを犯人と決めつけるのは早いですよ。問題なのはこの仮説通りなら平井さんを殺した犯人Bは蓮さんを殺そうと企てた犯人Aを知っている。計画的にもかなりの綱渡りですし、共犯関係にあるかもしれない。ただ、Aが蓮さんに盛ったはずの毒をBが平井さん殺害に利用して実際に死んだのは平井さんだった』 蓮は唸り声を上げて腰掛けていたベッドに仰向けになった。 『死んだのが俺じゃなくて平井さんだったんだから、Aは驚いただろうな』 『AとBは今頃は仲間割れの真っ最中かもしれません』 『まじかよ。ただでさえ玲夏の脅迫状や嫌がらせの容疑者がゴロゴロいるのに人殺しを企む人間まで二人もいるのか』 『しかも蓮さんを殺そうとしたAはBのおかげで蓮さんを殺しそこなっています。また蓮さんが狙われる可能性も……』  矢野がそこで言葉を切った。蓮、玲夏、なぎさは押し黙った矢野を見て怪訝な顔をする。 『おーい、一輝。急にどうした?』 『……朝食準備が終わって平井さんがフロントに行っていた間、宴会場が無人になっていたのはわずか10分。そこでもしも他のスタッフや役者が宴会場に来ていたら無人にすらなりません。そんな短時間でAが蓮さんの湯呑みに毒を入れ、BがAに気付かれないように湯呑みをすり替えるなんてこと、やっぱり綱渡り過ぎて忙しいと思うんです。俺が犯人ならまずそんなギリギリな計画は立てない』 誰もが無言だった。どう考えても10分間で二人の人間が一方を欺きつつ犯行を仕掛けるには時間が足りない。AもBも誰かに目撃される恐れもある。 『だけど、こう考えると辻褄が合うんです。蓮さんの湯呑みに毒を仕込んだ犯人Aがだったとしたら? 平井さんは最初から朝食準備で宴会場にいた。湯呑みの準備段階で蓮さんの湯呑みに毒を仕込むことはできるでしょう。……なぎさちゃん、犯人Aを平井さんと仮定して、AとBの行動をタイムテーブルにして書いてくれる?』 「はい」  なぎさは時間軸と矢野の推理をまとめたタイムテーブルを作成した。テーブルに置かれたそのメモを全員が覗き込む。  ─────────  6:30 朝食準備終了  犯人A(平井?)  一ノ瀬蓮の湯呑みに毒を入れる  平井、フロントへ  ↓  宴会場無人(10分間)  犯人B(Aの共犯者?)  一ノ瀬蓮と平井の湯呑みをすり替える  毒入りの湯呑みは平井の席に  2つの湯呑みの指紋を拭き取る  ↓  6:40 平井、宴会場に戻る  ────────── 『犯人Bは平井さんを殺した奴だけど、俺としてはBに命を救われたのか』 「もし平井さんが犯人AならBは平井さんを殺そうとしていたのよね。Bは平井さんを恨んでいたのかしら」 メモを見た蓮と玲夏が口々に言う。二人の意見に矢野も頷いた。 『憶測の域を脱しませんが、平井さんが他殺の線は濃くなりましたよね。警察が湯呑みの指紋をどう判断しているかはわかりません。自殺として片付けようとしているのならあまり気にしていないかも』 『一輝から警察に言ってやれば?』 『やー。それが言えないんですよねぇ。このネタ集めるために少々手荒なことしたので。俺が湯呑みの指紋のことを知っていると警察にバレるのはまずいんです』 矢野は陽気に笑っていた。  なぎさにはいつも疑問だった。矢野は毎回どのような手段で情報を集めてくるのだろう。 場合によっては犯罪まがいの行為もしているようだがそれは早河も同じ。 なぎさが知らない早河と矢野の裏の顔がある。  どれだけ長い時間を共にしても、どれだけ相手のことをわかった気でいても、相手のすべての顔を知るのはきっと無理なのだ。          *  玲夏の部屋に助監督から撮影続行と再開の電話連絡が来たのはそれから数分後だった。 撮影は14時から再開される。遅れた分の撮影はまた日程を調整して撮影をし、予定通り明日東京に戻るスケジュールで本決まりとなった。 第三章 END →第四章 雷雨、ところにより陰謀 に続く
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