第四章 雷雨、ところにより陰謀

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 なぎさと玲夏はエレベーターホール手前の二人掛けのソファーに並んで座った。窓の向こうには神戸大橋と港の夜景が広がっている。 「ずっとヒールでいるのも疲れちゃうのよね。少し失礼するわ」  玲夏はピンヒールの靴を脱ぎ捨てた。なぎさもよく知る有名なレッドソールのブランドの靴が揃えて床に置かれ、彼女は身軽になった脚を宙に伸ばした。玲夏の自由さになぎさもつい笑みが溢れる。  容疑者リストの男達は玲夏に好意を抱いていたと思われる人間ばかり。加賀見泰彦、北澤愁夜、平井透、この三人は少なからず玲夏に好意を抱いていた過去がある。 玲夏を巡って躍起になる彼らの気持ちがわかる気がした。 玲夏はまったく気取らない。外見はきつめの美人なのに中身の印象はまるで違う。 今もこうして途中で打ち上げを抜け出し、ブランドの靴を脱ぎ捨てて寛いでいる。気取らないのに、品がある。 人によって態度を変えることもない。スタッフのひとりひとりの名前を覚え、挨拶をし、彼らを見下すことなく丁寧に接している。 そんな玲夏だから早河が恋をしたのだろう。 「私ね、あなたのお兄さんに会ったことがあるの」 「兄に?」 「香道さんは仁や真紀の同僚だったからその縁でね。仁や真紀と一緒に何度かお酒を飲んだこともあるのよ」 「そうだったんですか……。お兄ちゃん、そんなこと一言も言わなかったから……」 (お兄ちゃんが女優と知り合いになったのなら私に自慢げに話すような気がするのに)  ソファーの下で玲夏の脚が揺れた。細く長い脚も、ただ棒のように細いのではなく、筋肉がついて鍛え上げられたしなやかな細さだ。 女優として、女性として、玲夏は非の打ち所のない人に思えた。 「香道さんが妹のあなたに私のことを話さなかったのは私や仁の立場を考えてのことだと思う。私と仁の関係がどこで漏れるかわからないから、スキャンダルにならないようにしてくれていたのね」 「あの……どうして……別れたんですか?」  なぎさは言ってしまった後に後悔した。聞かなければよかった。でも、当たり前に早河の名前を呼び捨てにできる玲夏が羨ましくて、呼び捨てで呼び合っていた二人の過去を知りたくなった。 玲夏は嫌な顔も見せずに微笑する。彼女は暗い窓ガラスに映るもうひとりの自分を眺めて口を開いた。 「仁はね、香道さんが亡くなった時かなり荒れたの。単独行動をして謹慎処分になったことは聞いてる?」 「はい。お兄ちゃんを死なせたのは自分だって……責めていました」 「そうね。あの人は香道さんの死に責任を感じていた。お酒も煙草の量も増えていたし、刑事の仕事は謹慎中のはずなのに身体に怪我をして帰って来たり。あの頃の仁は荒んでいた」  早河の謹慎期間はなぎさが堕胎手術と自殺未遂をして入院していた期間と重なる。 (所長、私の前ではそんな顔見せなかった。私を気遣って励まして……でも本当は私の前では無理していたんだ) 2年前のなぎさが知らない早河の本当の姿が見えてきて胸が痛む。 「そんな仁を見ていることが私には耐えられなかった。私には彼を支えることができなかった。仁が一番辛い時に……私は彼から逃げたの」 玲夏の横顔の翳りは何を意味している? 彼女は早河と別れたことを後悔しているのだろうか? もし玲夏が後悔しているとしたら早河は? 彼は玲夏と別れたことを後悔している?  黒く暗い雨雲がなぎさの心に雨を降らせる。 「だけど今となってはだったのよね。別れの理由なんて迷宮入りしたミステリーみたいなものよ」 「迷宮入りしたミステリーですか?」 「別れた当時にはわかっていたサヨナラの理由が別れた後にはわからなくなっている。どうして別れたんだろう? って思った時にはすでに迷宮入り。今思えば別れの理由はそんなことで済ませられることだったのにね。あの頃の私にはではなくて、許せなくて耐えられなかったことなのよ」  玲夏の翳りは一瞬で消えて今は明るい笑顔を見せていた。  なぎさの知らない早河を玲夏は知っている。なぎさの知らない早河と玲夏の過去がある。 そんな当たり前のことが、どうしてこんなに苦しいの?
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