第四章 雷雨、ところにより陰謀

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 打ち上げは午前零時前にお開きになった。  一ノ瀬蓮は部屋の前までマネージャーに送り届けられて自室に戻った。蓮の部屋は十一階の東側、1121号室。 西側にある玲夏の部屋と同じ作りのキングサイズのベッドに彼は横になり、目を閉じた。  少々酔いが回っていた。思いの外、身体も疲れている。 今日は慌ただしい日だった。朝食時に平井透が死に、しかも矢野が言うには本来は狙われたのは自分で、平井は何者かに殺されたのだ。 午前中は警察の事情聴取。午後は玲夏達がハーブ園で撮影中はホテルで台本を読んだり、リラックスできた。その後も何事もなかったかのように順調に撮影は進んだ。  役者もスタッフも皆、わざと平井のことを考えないようにしているみたいだった。平井の死が他殺だと知る者はいないが、それでも人が死ぬ場面に遭遇したのだ。 本当に何事もなかったように仕事ができていた人間が果たしてどれだけいるだろう。 中打ち上げでの役者やスタッフの異様なはしゃぎ方も平井の死を忘れたい一心のように見えた。  扉がノックされる音で蓮は目を開けた。マネージャーか矢野なら用があれば電話で済ませるはず。こんな夜中にわざわざ部屋を訪れる人間に、ひとりだけ心当たりがあった。 無視を決め込むこともできるが、もしも予想通りの人間ならばいつまでもホテルの廊下にいられるのはまずい。 舌打ちして彼はベッドを降りた。扉の覗き穴から相手を確認して溜息をつく。予感的中だった。 『……どうした?』 「蓮さん……!」  扉を開けた途端、沢木乃愛が抱き付いてきた。蓮は廊下を見回して人がいないことを確認してから乃愛を部屋に入れた。 閉じられた扉の前で仁王立ちする蓮と、蓮に抱き付いて離れない乃愛。 『乃愛。離れろ』 蓮の声は低くて冷たい。なぎさや玲夏に向ける声とは明らかに違った。 「嫌です」 『お前は玲夏の真似がしたいだけだろ。玲夏の真似をするために俺が欲しいだけだ』 「違う! 乃愛は本気で蓮さんを愛しているんです」 乃愛の大きな瞳が蓮を見つめる。若くて可愛い女に求められる。男なら誰もが、こんな状況を望むかもしれない。 『悪いけど俺は乃愛を愛せない』 「やっぱり……蓮さんは玲夏さんが好きなの?」 涙を溜める乃愛の瞳を直視できなかった。蓮はしがみつく乃愛を無理やり引き離す。 『ああ。俺は玲夏を愛してる。だから乃愛の気持ちには応えられない』  この気持ちを言葉にするのは初めてだった。言葉に出してしまえばこの気持ちは本物になってしまう。誤魔化して、見ないフリをしてきた気持ちに恋という名前がついてしまう。  蓮から離れた乃愛はうつむき加減に部屋の中央に歩を進めた。 彼女は着ていた薄手のカーディガンを脱いで振り向いた。ノースリーブのワンピースから白くて華奢な肩が露になり、乃愛のカーディガンはソファーの背にかけられた。 「じゃあ、本気じゃないならいいんですね?」 『は?』 「本気じゃなくて遊びなら相手が乃愛でもいいでしょ? 蓮さん、遊びの女ならいっぱいいるじゃないですか。乃愛もその中に混ぜてください」  妖しげな笑みを浮かべた乃愛が一歩ずつ近付いてくる。普段のふわふわとした可愛らしい雰囲気は消え去り、今の乃愛は遊女の役でも演じているような妖艶さを纏っていた。 『あのなぁ、どうしてそうなるんだ?』 「二番目でも三番目でもいい。蓮さんの側に居られるなら遊びでもいいの。乃愛ね……まだ処女なんです。お芝居でキスはしたことあるけど、それ以上はまだ……」 乃愛は蓮の首に手を回した。長身の彼にぶら下がる体勢で彼にキスをする。触れ合わせるだけのキスが次第に深くなった。 「乃愛は蓮さんのためならなんでもできるよ。蓮さんが乃愛を欲しいならいくらでもあげる。蓮さんになら何されてもかまわない」  蓮の目の前で乃愛はワンピースを脱いだ。シフォン素材の白いベビードールに覆われた彼女の姿に蓮の本能が揺さぶられる。乃愛の手はショーツにかかり、軽やかな音を立ててピンク色のショーツが床に落ちた。 蓮の視線が自然とベビードールの下に透けて見える乃愛の素肌に向く。ベビードールのレースの裾の向こう側には女の茂みが見えた。乃愛はそこを隠そうともしない。 「ベッドに行こ……?」  甘く妖艶な囁きに導かれて蓮の足はベッドに向いた。キングサイズのベッドに仰向けになる蓮の上に乃愛が跨がる。 乃愛がベビードールの肩紐を下げ、ショーツとお揃いのブラジャーのホックをはずすと形のいいバストが零れた。 「触ってください」 乃愛に誘導された蓮の手が彼女の胸を覆う。蓮の手のひらに収まった乃愛の柔らかな胸が形を変え、中央の紅色の突起が立ち上がる。乃愛は嬉しそうに蓮の上で身動ぎした。 「蓮さんに触ってもらえて、乃愛、とっても嬉しい」  蓮の上に覆い被さる乃愛がまた彼にキスをした。もう乃愛は何も身につけていない。手を伸ばせばすぐそこに女の身体があった。 蓮は本能と理性の狭間で揺れていた。ここで乃愛と関係を持つのは簡単だ。遊びの女と割りきればそれでいい。 もしここで乃愛を拒めばどうなる? きっと乃愛の怒りは玲夏に向く。 あの手紙の差出人が乃愛ではなかったとしても、新たに玲夏を憎む人間を自分が作ってしまうことになるかもしれない。  玲夏への想いは報われない。そんなことわかっている。報われなくてもいい。玲夏の隣で彼女を守ることができるならそれでよかった。  二つの唇が唾液の糸を引いて離れた。蓮は乃愛を押し倒し、乃愛の胸元に顔を埋める。胸の突起に吸い付くと、乃愛が甘い声を漏らした。  この身体は玲夏ではない。目の前にいる女は玲夏じゃない。 遊びの関係で付き合う女はどこか玲夏に雰囲気が似ていた。玲夏ではないとわかっていても遊びの女に玲夏の面影を重ねて抱いていた。 いつものようにすればいい。いつものように。 しかしまだどこかで必死に乃愛を拒み続けるもうひとりの自分がいる。そのもうひとりの一ノ瀬蓮が何かを自分に警告しているがその警告は(もや)がかかった遠くで響いていて何を言っているのか聞き取れない。  乃愛の身体に触れていた手を止めたのはもうひとりの自分の声。相変わらず靄の向こうの自分が何を言っているのかは聞こえない。でも、もうひとりの一ノ瀬蓮が言いたいことはわかっていた。  裸でベッドに寝そべる乃愛を見下ろして蓮は自身を嘲笑する。 乃愛の身体は綺麗だ。滑らかな白い肌には傷ひとつない。均整のとれた身体に柔らかな抱き心地、女の甘い香り。反応したくなくても蓮の下半身は反応していた。 このまま先へ進むのは簡単だ。 それでも、抱きたいとは思わなかった。 『……服着て部屋に戻れ』 「……え?」 『子供は寝る時間だ。さっさと風呂入って寝ろ』  彼は乃愛の上から退き、彼女が脱ぎ散らかした服と下着を集めてベッドに放った。身体を起こした乃愛は集められた服を掴んで呆然としている。 『こんなことしても自分を傷付けるだけだ』 「どうして乃愛じゃダメなの?」 『じゃあどうして乃愛は俺がいいんだ?』 「それは……」 乃愛は答えられなかった。彼女は裸のまま、服をぎゅっと掴んでうなだれた。  蓮はソファーに座り、乃愛の姿から目をそらした。下半身の興奮もしばらくすれば治まる。とにかく乃愛をここから出したかった。 『人の気持ちは理屈じゃない。どうしてだ、なんでだ、そんなもので理由付けできるものじゃない。俺が乃愛を愛せないのも理屈じゃない』 「ここまでしておいて……酷いよ……」 『誘ったのはそっちだろ。愛がなくてもいいなら抱いてやるが、乃愛は俺に愛されたがってる。そんな気持ちで俺に抱かれても虚しいだけだ』  泣きながら彼女は下着を身に付け、服を着た。ワンピースの後ろのファスナーを上げるのに手間取り、それだけは蓮が着せるのを手伝った。本当はファスナーを上げられないフリをしているのかもしれないと思いながら。 乃愛は赤い目をして部屋を出ていった。乃愛の身体の感触がまだ手に残っている。  あのまま抱いた方が傷付けずに済んだ? だけど靄のかかる景色の中でもうひとりの自分が叫んでいる。蓮はその叫び声をどうしても無視できなかった。 『玲夏……』
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