第四章 雷雨、ところにより陰謀

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6月10日(Wed)午前1時  日付を跨いだ辺りから雨が強く降り出した。神戸の街は暗雲に包まれている。 十一階東側、1128号室。加賀見泰彦の部屋のベッドに香月真由はうつ伏せに寝そべっていた。 「あの子、本庄玲夏の付き人の秋山って子、どう思う?」 真由は隣にいるこの部屋の主に聞いた。加賀見は上半身を起こして煙草をふかしている。ヘビースモーカーの加賀見に割り当てられたこの部屋は喫煙可の部屋だ。 『どうって?』 「本庄玲夏はこれまで付き人をつけなかったのよ。あの人は人任せにするのを嫌うからマネージャー以外の世話役なんていらないの。それなのにいきなりこの現場から付き人がいて、しかも最近付き人になったにしては本庄さんと秋山さんは親し過ぎる気がする」 『元々知り合いだったと聞いたよ。だからだろう』 加賀見は真由の言葉をさして気にしていない様子でサイドテーブルの灰皿に手を伸ばした。 「でもなんだか……そうよ、一ノ瀬蓮の付き人の矢野って男も怪しい。あの二人、何かあるわよ」 『考え過ぎだろう。あの二人が何者でも俺達には関係ない』 「ふぅん。でもあなた、神戸に来て早々に秋山さんを口説いていたじゃない?」 身体を起こした真由は悠長に煙草を愉しむ加賀見をねめつけた。加賀見が苦笑いする。 『あれは慣れない現場での彼女の緊張をほぐそうとしていただけさ』 「秋山さん、あなたの好きそうなタイプよね。そういえば前の奥さんも秋山さんみたいな外見じゃなかった?」 『妬いてるのか? 心配しなくても俺は紗和子が一番だよ』  紗和子、と真由を本名で呼ぶ加賀見は彼女を抱き寄せた。嗅ぎ慣れた煙草の煙が漂う部屋で二人は唇を重ねる。  この男の調子のいい甘い言葉に彼女はいつもほだされる。彼の言葉は美しさで獲物を誘って捕食する食虫花。 捕らわれたら最後。心まで(むしば)まれて動けなくなる。          *  十一階、西側。1109号室。速水杏里はバスルームの鏡の前で自分の顔を見つめていた。 (私はどうすればいいの?) 鏡に映るのは女優、速水杏里の姿ではない。疲弊と後悔にまみれた哀れな女の姿だ。  部屋ではバスローブを羽織った北澤愁夜がベッドの上で寛いでいた。杏里は浴室の扉の前で北澤を見つめる。 彼女が失いたくないものとは何? 女優という看板? それともこの男? 『そんなとこで突っ立ったままでどうしたんだ?』 杏里の視線に気付いた北澤が彼女を手招きする。杏里はベッドの端に腰かけた。 『杏里。何かあっただろ』 「何もないよ」 『嘘つけ。撮影中もボーッとしてNG何度も出してたじゃねぇか。言いたくねぇなら言わなくてもいいけど、何かあるなら俺に言えよ』  そう言って髪を撫でる彼の手つきが優しくて、込み上げてきた感情が杏里の目を潤ませる。北澤は何も言わず、涙を流す杏里を腕の中に閉じ込めた。 (愁夜ってズルい。チャラくて女好きなくせに弱ってる女にはこんな風に優しくして) だから離れられない。この人の側にいたい。 だから彼女は……。  雷鳴が陰謀の雲を引き連れて鳴り響く。地表に降り注ぐ雨は朝まで止むことなく、神戸の街を雨の涙で滲ませた。
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