第一章 梅雨、たびたび動揺

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 依頼を引き受けた早河は玲夏の所属事務所の社長、吉岡と話をするために港区にある芸能プロダクション〈エスポワール〉の事務所へ車を走らせていた。 助手席のなぎさが運転席の早河へ顔を向ける。 「所長……。ひとつ聞いてもいいですか?」 『なんだ?』 「玲夏さんとはその……恋人だったんですか?」 なぎさからの質問に早河は少し考えた後、言葉を選ぶようにして答えた。 『……まぁな。玲夏とは2年前まで付き合ってた。俺が刑事を辞めた時に玲夏とも別れたんだ』 「2年前……」 (それじゃあ私が初めて所長と話した時、あの時に付き合ってた彼女さんが玲夏さん?)  予想していた答えにまた胸が痛くなった。早河と玲夏の様子を見て二人がただの知り合いではないことは察しがついた。 チクリと胸が痛む。この痛みはなに? このモヤモヤとした感情はなに? どうしてこんなに心が痛いの? 『でもやり辛い仕事引き受けちまったなって今さら後悔してる』  早河は彼にしては珍しい気弱な表情で溜息をついた。 「やり辛いって玲夏さんが元カノだからですか?」 『それもある。別れてから一度も連絡とってなかったからな。まさか玲夏が俺に仕事を頼むとは思わなかった。けど芸能界っつーのは、俺ら一般人の常識なんてものが通用しない奴らが山ほどいる。俺にしてみればやりにくい相手しかいない業界なんだよな……気が重い』  早河がこんなに気落ちしている姿は初めて見る。車が交差点で右折した。 “女優と付き合ってただけあって芸能界の事情に詳しいですね”と言おうとしてなぎさは慌てて口をつぐんだ。これではまるで早河への嫌味だ。  高層ビルの地下駐車場へ早河の車が滑り込む。それまで聞こえていた雨と雷の嵐のシンフォニーが地下に潜った途端に鳴り止んだ。 地下駐車場からエレベーターで地上に上がる。早河は目的の階がわかっているのか自然な動作で階数ボタンを押していた。 (ここのビルに来るのも初めてじゃなさそう。何度も来たことあるみたいな……) この事務所までの道のりも地下駐車場のエレベーターの場所も早河は熟知していた。それは早河が何度もこのビルを訪れている証。 玲夏との関係の深さを物語っている。 (ああっ! もう。なんでこんなにモヤモヤするの。仕事だ仕事。頭を切り替えなくちゃ)  思考を仕事モードに切り替えようとしても、時折垣間見える早河と玲夏の過去がどうしても気になる。本当に聞きたいことほど聞けないものだ。
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