第五章 天泣、ときどき迷宮

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第五章 天泣、ときどき迷宮

 目を開けると視界が明るい。鳥のさえずりが聴こえた。いつの間にか集まる都会の鳥達はどこから来て、どこに帰るのか彼はいつも不思議に思っていた。 (朝か……)  早河仁は身体を起こした。頭はまだふらつくが、昨日まで感じていた身体のだるさはない。熱を吸って干からびた冷却シートが額からずり落ちた。それを見た彼は昨日の出来事を思い出す。 サイドテーブルには風邪薬の箱と冷却シートの箱、未開封のミネラルウォーターのペットボトルが置かれていた。早河はペットボトルに手を伸ばし、渇いた喉にぬるい水を流し込んだ。 (そっか。なぎさが……) なぎさが冷却シートや風邪薬を買って来てくれたのだ。彼女が作った粥と水炊きを食べた後はそのまま朝まで眠り続けた。 (なぎさはいつ帰ったんだ?)  なぎさの姿は部屋のどこにもなかった。          *  今朝の東京は昨夜の嵐が嘘のように数日振りに顔を見せた青空の中心で太陽が輝いていた。今はこんなに良い天気なのに、予報では夕方には曇り空となり20時過ぎには雨が降るらしい。  この時期には珍しく湿気のない清々しい朝、早起きした香道なぎさは久々に自転車に乗って散歩に出掛けた。 早朝ランニングをする元気な老人、犬の散歩をする女性、駅に向かう男子高校生、皆が同じ時間に別々の人生を歩んでいる。  7時から開店しているベーカリーは通学や出勤途中の人々で賑わっていた。なぎさはリンゴとキャラメルのデニッシュとカルツォーネを購入した。 ベーカリーの袋を自転車のカゴに入れて公園に向かう。 昨夜の雨で公園にはところどころに水溜まりができている。 雨上がりの公園にはなんとも言えない淋しさが漂っていた。夕暮れの公園と雨上がりの公園は、そう言えば少し似ている。これは哀愁の匂いだ。  見上げた空は絵の具の青色。花壇にはピンクと紫色の紫陽花が太陽の光を浴びて気持ちよさそうに咲いている。 普段は早朝散歩はめったにしないが、晴れた空を見ていたら無性に外に出たくなった。頭の中をクリアにしたい気分だった。 (これからどんな顔して会えばいいの……) 乾いたベンチに腰掛けて、リンゴとキャラメルのデニッシュを頬張る彼女が考えているのは早河のこと。 一度、好きだと自覚した気持ちは消し去れない。  今思えば、2年前に早河と知り合った当時から彼に惹かれていた気がする。不倫相手との先の見えない恋に疲れていたあの頃に早河の優しさに触れて、こんな人が彼氏ならいいのにと思ったことがある。 けれどあの時の早河は玲夏と交際していた。玲夏が早河の優しさを独り占めしていた。その事を考えると嫌でも嫉妬の渦に呑まれる。 (いつからなんだろう。私はいつから……)  爽やかな風がなぎさの髪をなびかせる。紫陽花の花園が哀愁の風に揺れていた。
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