第五章 天泣、ときどき迷宮

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 港区汐留のテレビ局の会議室では今冬公演予定の舞台【命のマリオネット】の出演者顔合わせが行われていた。本庄玲夏はこの舞台で主役のマリオネット、シルビアを演じる。 玲夏の隣には神戸滞在中に遭遇した黒崎来人がいた。黒崎は玲夏の相手役の人形遣い、エリックを演じる。 『7月中旬から稽古に入ります。出演者の皆さんはご多忙な方ばかりですが、何卒よろしくお願いいたします』 脚本家とプロデューサーの挨拶が終わり、出演者達も軽く挨拶を交わして顔合わせの場は解散となった。  廊下を出た先で玲夏は黒崎に呼び止められた。 『この後、お時間ありますか? 上のラウンジで軽くお茶でもできたらと思うんですが』 「そうですね……じゃあ少しだけ」  テレビ局内のラウンジには業界関係者しかいない。玲夏と黒崎がラウンジに入ると、業界人の好奇な視線が二人に向いた。 ラウンジの二人席に向かい合って座り、黒崎が慣れた調子でウエイトレスにコーヒーと紅茶を注文している。 (蓮も北澤さんも加賀見さんも黒崎さんも、俳優はみんな女の扱いが上手いのよね) それに比べて……と玲夏は早河のことを思い出して苦笑した。 (仁は天然たらしだからなぁ。口説くつもりで女に優しくしてるわけじゃないのよね)  ウエイトレスがコーヒーと紅茶を運んで来た。黒崎の前にコーヒー、玲夏の前に紅茶が置かれる。 『先日神戸でお会いしたばかりで今はこうして東京でお茶をしているなんて不思議ですよね』 「そうですね。黒崎さんはいつ京都から戻って来られたんですか?」 『一昨日の最終の新幹線で。本庄さんは昨日東京に?』 「ええ。お互いにスケジュールが多忙ですね」 当たり障りない会話を繰り返すティータイム。 『忙しいのは役者冥利に尽きます。僕は舞台は二度目なので本庄さんの足を引っ張らないように頑張ります』 「私も舞台経験は少ないですから……パートナーの黒崎さんを頼りにしています」 玲夏は愛想よく微笑んだ。黒崎の玲夏を見つめる眼差しが変化する。 『パートナーか。役であっても本庄さんとパートナーになれるのは光栄です。舞台上で僕達はいわば疑似恋愛をすることになる。僕は相手役が本庄さんと知ってこの仕事を引き受けたんです』 「口がお上手ね」 『参ったな。本心ですよ?』  黒崎は照れたように焦げ茶色の前髪を掻き上げた。彫りの深い甘い顔立ちはハーフにも見えるが、公称プロフィールでは純粋な日本人となっている。  黒崎来人は9年前の2000年に大手芸能事務所から俳優デビューしたものの、デビュー時の人気は今一つだった。デビューから2年後の2002年に単身アメリカに渡り、ハリウッドで演技の勉強を積んで2006年に帰国。 彼がブレイクしたのは帰国後からだ。ハリウッド仕込みの演技が評価されて今や一ノ瀬蓮と互角の人気を誇るスターとなった。  人気、実力を兼ね備え、ルックスも一流の黒崎には女性関係の噂が絶えない。最近は40代のベテラン女優との密会がスクープされていた。 女性スキャンダルの多い黒崎来人には気を付けるようにと、事務所の社長やマネージャーにはいつも口うるさく言われている。 『本庄さんはこの後も撮影ですか?』 「はい。神戸でロケをしていたドラマのスタジオ撮影です」 『それは残念だな。今夜、お食事でも……とお誘いする計画だったのに』 「ごめんなさい。また次の機会があれば……でも私、味にはうるさいですよ?」 『ははっ。それなら次の機会にでも僕が気に入っているイタリアンの店にお連れしますよ。……やれやれ、時間切れかな? あそこで待っている方、本庄さんのマネージャーさんでしょう?』 黒崎が片手で示した先にはラウンジの入り口に立つ山本沙織の姿がある。 「黒崎さん、すみません。今日はこれで失礼します」 『ええ、無理やりお誘いしたのは僕ですから。撮影頑張ってください』  玲夏が黒崎に会釈して沙織と共にラウンジを出ていく。彼女の後ろ姿を眺める黒崎は含み笑いをして小さく呟いた。 『……お気を付けて』         * 「ナイスタイミング。もう少しで食事の約束させられるところだった」  エレベーターホールで笑いながら玲夏は沙織に耳打ちした。楽しげに笑う玲夏とは違い、沙織は眉を吊り上げて憤慨している。 「玲夏ー。笑い事じゃないでしょ。黒崎来人には気を付けてってあれほど言ったのに。彼は共演者喰いで有名なのよ?」 「はいはい、ごめんなさい。でも舞台で共演するんだから多少のコミュニケーションは必要でしょ?」 「その多少のコミュニケーションが命取りになるんです」 「大丈夫。もし私と黒崎さんがを取ったところで喰われることはないよ」  乗り込んだエレベーターが地下駐車場で扉を開けた。数秒前まで天真爛漫に笑っていた玲夏は口元を引き締めてサングラスをかけた。 駐車場に駐めた沙織の車の後部座席に玲夏が乗ろうとした時、沙織が短い悲鳴を上げてその場に倒れ込んだ。 「……沙織? ……沙織! どうしたのっ?」 玲夏は地面に倒れ伏す沙織に駆け寄った。 沙織の手足は痙攣していて、顔が青ざめている。沙織の震える右手が運転席の扉を指差した。 「……ドアのところに……針……」 「針?」  運転席のドアは半分開いている。玲夏は慎重にドアに近付き、目を凝らして車のドアノブを見た。運転席のドアを開ける時にちょうど指が触れる辺りに小さな針がセロテープで固定されている。 針の先端には沙織のものと思われる血液が付着していた。 「とにかく救急車……」 「……玲夏ダメ! 救急車なんか……呼んじゃダメ……! テレビ局の駐車場に救急車が来たら騒ぎになる。玲夏のスキャンダルになったりしたら……」 「でも! この針、きっと毒が塗ってあるのよ! 早く病院に行かないと沙織が……」 「だから……小山さんと……社長に……あと……はや……か……わ……さんに……も……」  沙織の呼吸はどんどん荒くなり、力尽きた彼女は目を閉じた。玲夏が沙織の身体を揺さぶっても彼女は目を開けない。 「沙織っ? ねぇ、沙織!」  こんな状況でも自分の命より玲夏を必死に守ろうとする沙織の意思を無視できない。すがる気持ちで玲夏は小山真紀の携帯番号に電話をかけた。          *  玲夏から連絡を受けた真紀の車がテレビ局の地下駐車場に入った頃には、人命を優先した吉岡社長が呼んだ救急車が到着していた。 救急車のストレッチャーに寝かされた沙織は酸素吸入器をつけて苦しげに呼吸している。 「真紀……! どうしよう、沙織が……」 「玲夏、落ち着いて。もうすぐ矢野くんとなぎさちゃんがここに迎えに来る。玲夏は二人と一緒に事務所に行って。これは吉岡社長の指示よ」 真紀は動揺する玲夏の背中をさすり、彼女をなだめた。 「だけど沙織が……」 「山本さんには私が付き添う。後のことは私に任せて」  昔から何が起きても気丈で冷静な玲夏がこんなに取り乱すところを真紀は初めて見た。  真紀は小学3年生の時に両親が離婚している。あの頃、父親がいなくなったことが寂しくて学校帰りによく泣いていた真紀を慰めてくれたのが親友の玲夏だ。 9歳の玲夏がしてくれたように、真紀は涙を流す玲夏をぎゅっと抱き締めた。
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