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涙を流して抱き付く玲夏を早河は振り払えなかった。玲夏から漂うシプレの香りは2年前と変わらない。
「ごめんなさい……」
精神が錯乱していた玲夏は人前で早河に抱き付いたことを恥じて彼から離れた。早河は平然とソファーに座り、玲夏を隣に座らせる。
『話は小山に聞いた。山本さんは心配だが、玲夏が無事でよかった』
「よくないよ……。私、女優辞めようと思う」
『辞めたいなら辞めればいい』
早河は煙草をくわえた。2年前と変わらない銘柄の煙草の箱がテーブルに置かれる。早河の煙草も玲夏の香水も、別れたあの日と同じ匂いだ。
『だけどな、お前は根っからの女優だ。俺と別れた時だって女優の顔してた』
「何よそれ。わかった風なこと言って……」
玲夏は早河の肩に頭を預ける。彼の煙草の匂いが懐かしくて落ち着いた。自然と絡み合う二人分の手の体温が心地いい。
『俺と別れた時の玲夏は強い女の役を演じていたんだよな。最後まで演じきれてなかったけど』
「バレバレのたぬき寝入りしていた人に言われたくない」
『お前はバレバレのたぬき寝入りしてる男にキスした女だよ』
別れた日の強がりも早河には見抜かれていた。彼はいつもそうだ。いつも玲夏の強がりを見抜いて、女優ではなくただの女に戻してくれる。
『吉岡さんが言っていたが、山本さんな、神戸に向かう途中で品川駅の階段で誰かに突き落とされたらしい』
「沙織が? そんな話聞いてない……」
『山本さんが玲夏には言わないでくれって吉岡社長に口止めしたそうだ。玲夏に言えば責任感じて自分を責めるだろうって。山本さんは女優、本庄玲夏に命懸けてるんだよ。お前が女優で在り続けることが山本さんの願いじゃないのか?』
煙草の煙が静寂の室内をゆらゆら流れる。玲夏は早河の肩に頬を寄せて唇を噛んだ。
『本庄玲夏の芝居を楽しみに待っているファンや、お前に力を貰って救われてる人だっている。玲夏が女優を辞めたいなら好きにすればいい。でも逃げるのは玲夏には似合わない』
「私からも刑事の仕事からも逃げた男が何言ってるのよ」
早河の腰に手を回して彼に強く抱き付いた。早河の片手が玲夏の髪を撫でる。彼は腕を伸ばして、テーブルの灰皿に吸いかけの煙草を捨てた。
『俺はいいの。逃げるのは俺のオハコだ。横取りすんな』
「勝手な奴……」
顔を上げた玲夏と早河の視線が絡み合う。
どちらともなく合わせた唇がキスの雨でとろけて交わる。懐かしい煙草味のキス。これは何の意味があるキスだろう?
目の前にいるのは別れた男。不器用で勝手で優しい男。
唇を離した玲夏の頬は紅色に上気していた。ルージュが落ちて濡れた唇を早河の指がなぞる。2年前と同じ感触のキスだった。
「好き……。まだ、仁が好きなの」
2年間封じ込めていた想いが溢れ出して止まらない。
「私達……やり直せない?」
美しい彼女から流れる涙に早河は触れた。昔と変わらない漆黒の瞳がこちらを見ている。
目の前にいるのは別れた女。綺麗で強がりで優しい女。
彼女のことは好きなままだ。嫌いになることはない。愛してもいる。それはきっとこの先も変わらない。
でも……答えは出ていた。
『ごめん。玲夏とはやり直せない。今の俺は探偵としてお前を守ることはできても、男として守ることはできない』
玲夏の漆黒の瞳が悲しみに揺れた。これ以上、想いが溢れないように彼女は目を閉じて深呼吸を繰り返す。
「……冗談よ。本気にしないで。少し弱気になってただけ」
ほら、また強がりの演技。彼には見抜かれているのにね。
『……やっぱりお前、俺の前では芝居下手くそだな。どうしてだ?』
「女優に向かって芝居下手くそだなんて、失礼な男ね」
今はその下手くそな芝居に騙されて欲しい。嫌いになれたら楽なのに、嫌いにはなれないから。ごめんね、まだ好きでいさせて。
『お前は自分で思ってるほど強くない。弱音ならいつでも聞いてやるから無理するなよ』
「ありがとう。……ねぇ、誰かいるの? 探偵としてではなく、男として守りたい女の子」
その答えを聞かなくても彼女は知っている。きっと彼女の答えは正解だ。
玲夏の問いかけに早河は考えるように天井を仰ぎ見た。
今あなたは誰のことを考えているの?
誰の顔を思い出しているの?
『守りたいって言うか……ほっとけない女はいる』
「もしかして、なぎさちゃん?」
『まぁ……そうだな』
彼女の答えは正解だった。今の彼が大切にしたいのは“彼女”なんだ。
玲夏は少しだけ悔しくなって、わざと意地悪な質問を返す。
「ほっとけないって、それはなぎさちゃんが香道さんの妹さんだから?」
『ああ。なぎさに何かあったら香道さんに申し訳ないからな』
ほっとけない、先輩の妹だから、都合のいい言葉だ。彼は他の勘は鋭いくせに自分のことにはとことん鈍い。
なんだか可笑しくて笑いが込み上げてきた。肩を震わせて笑う玲夏を早河が怪訝な顔で見ている。
「振ったくせにキスは避けなかったね」
『あれは不可抗力。避けれない』
「避ける気もなかったくせに。この天然女たらし」
『俺がいつ、女たらした?』
「そういう無自覚なところよ。バーカ」
今でも愛してるよ。だからあなたから卒業すると、たった今決めたよ。
〈あなたの隣〉はもう私じゃないから。
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