第五章 天泣、ときどき迷宮

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 私は私の仕事をする。  何が起きても、どんな困難があろうとも。  私は女優、本庄玲夏で居続ける──  マネージャーの沙織が毒針に刺された事件から4時間後、玲夏はテレビ局のメイクルームで西森結衣にメイクを施されていた。結衣が玲夏の顔にファンデーションを塗っている。 「山本さんが急病で倒れたって聞いたけど、大丈夫なの?」 「うん。ちょっと過労気味だったみたい。少し入院すれば良くなるって」 スキャンダルを避けるために公には沙織は体調不良で入院したことになっている。数時間前まで軽度のパニック状態だったとは思えないほど、今の玲夏は完璧に平常心を保っていた。  今日はこれから【黎明の雨】のスタジオ撮影だ。メイクが終わり、スタジオ入り。リハーサルを繰り返して本番の合図がかかると玲夏の顔が変わった。 そこにいるのは女優を辞めると言って泣いていた本庄玲夏ではなく、黎明の雨の主人公、白峰柚希だった。          *  静まり返るテレビ局の廊下に響く自分の足音がやけに大きく聞こえる。本庄玲夏様と札のかかるメイクルームの前で立ち止まった速水杏里は一度呼吸を整えた。 素早く左右を見回して人の気配がないことを確認して、ゴム手袋を嵌めた手でドアノブを回す。メイクルームの棚に置かれた玲夏の私物のバッグを漁り、玲夏のメイクポーチから口紅を一本取り出した。  一瞬だ。一瞬で終わる。 (これをやらなければ……やらなければ私は……)  杏里が握り締めているのは少量の液体が入った小瓶と携帯用の小さなリップブラシ。小瓶を開けてブラシを無香の液体に浸す。 手が震えている。足が震えている。玲夏の口紅も、杏里の手の振動で震えていた。 口紅のキャップを外して少しだけ繰り出したピンクベージュの口紅の先端部分にブラシに染み込ませた液体を塗りつけた。 (これでいいのよね……?) 震える身体をかろうじて支えて、キャップを締めた口紅をポーチに戻した。 『そんなところで何してる?』  男の声が聞こえて杏里の肩が跳ね上がる。シャワー室に繋がるカーテンが開いて杏里の知らない男が現れた。 突然の見知らぬ男の登場に驚いた杏里は手にしていた小瓶とリップブラシを床に落とした。瓶が落ちて転がる音が甲高く響く。 『どうして速水杏里さんが本庄玲夏さんの控え室にいるんですか? 部屋を間違えたわけではないですよね?』 「あ、あなたこそ誰よ! 見ない顔だけど、関係者じゃないわよね? 無断でメイクルームに入るなんて……玲夏のストーカー?」 『ストーカーではありません。それに無断でもありませんよ。私は本庄玲夏さんに雇われた探偵です』  早河は足元に転がってきた小瓶を拾い上げ、目の高さまで掲げて中身を眺めた。瓶には無色透明の液体が入っている。 「たん……てい?」 『本庄さんは何者かに命を狙われていましてね。彼女が仕事をしている間、控え室は無人。何かを仕掛けるには絶好の機会ですからこうして見張っていたんです。あなたが口紅に塗っていたこの瓶の中身は何ですか?』 「多分……毒……だと思う」 杏里が早河から視線をそらした。その場に崩れ落ちた彼女は手で顔を覆って泣き始める。 『この瓶の中身を知らないまま、口紅に塗ったんですか?』 「知らないわよ! 私はそれを渡されて……玲夏の口紅に塗れって言われただけ……。そうしないと私は……私の人生終わっちゃうの!」  泣きわめく女は早河が最も苦手な人種だ。本来ならここで警察に突き出すところだが、まだ早河にはやることがある。 『本庄さんの事務所に嫌がらせをしていたのはあなたですね?』 「……そうよ」 『では、この手紙を本庄さんに送ったのもあなたですか?』 彼は小瓶をスーツのポケットに入れ、最終確認のために取り出した例の手紙を杏里に見せた。〈殺しにいく〉と書かれた内容の手紙を見ても杏里の反応は薄い。 「何? 脅迫状? 玲夏、こんなもの貰ってたの?」 『見覚えありませんか?』 「ないわよ! こんなの玲夏に送るわけないでしょ! 別に死んで欲しいなんて思ってないんだから。私がやったのは……玲夏の事務所にゴミばらまいたり、ファックス送ったり……小学生のイジメみたいなことはやらされたけど手紙を送れとは言われてない!」  杏里の口から決定的な言葉を引き出せた。早河は泣いている杏里の背中をさすり、ハンカチを渡す。 杏里は早河のハンカチを受け取って目元を押さえた。彼女は早河に気を許し始めている。 『と言いましたね。誰かの指示で嫌がらせ行為をさせられていたんですね?』 「あなた……探偵なのよね?」 『一応は』 「お願い助けて! 私、脅されてるの……」  女優に涙目で見つめられれば大抵の男は理性を失うだろうと、早河は妙に冷静な気持ちで杏里を見下ろした。 杏里が清原監督との不倫をネタに津田に脅されているなら、ネタの証拠を津田から回収すれば不倫の過去が表に出ることはない。交換条件を持ちかければ杏里は必ずこちらになびく。 『本庄さんに嫌がらせするよう命じた人間と、あなたがしたことをすべて話していただけるのなら、私は出来る限りあなたの力になります』 「……わかった。全部……話すわ」
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