第一章 梅雨、たびたび動揺

6/10

105人が本棚に入れています
本棚に追加
/64ページ
6月6日(Sat)午後3時  香道なぎさ、25歳。彼女は現在、人生最大のピンチを迎えている。 なぎさはよろけた体を支えるために壁に片手をついてうなだれた。 「迷った……完璧に迷った」  ここは都内のテレビ局。なぎさは関係者用の出入り専用のIDカードを入れたパスケースを首に提げ、茶菓子の袋を抱えている。  今日は早朝から玲夏の所属事務所を訪れ、潜入調査のために必要な芸能界の予備知識や関係者のデータを玲夏のマネージャーの沙織や吉岡社長に叩き込まれた。 昼過ぎに雑誌の取材を終えた玲夏と合流。玲夏と沙織と共にテレビ局に入ったのは午後2時だ。 吉岡社長が言うには、今日クランクインする新春スペシャルドラマに出演する役者、撮影スタッフ含めてのドラマチームに玲夏をよく思っていない人物が数名いるようだ。彼はその中にあの手紙の差出人がいるのではと考えている。  玲夏がメイクルームに入り、いよいよ潜入開始。 関係者への挨拶回りには本名の香道ではなく、秋山なぎさと名乗った。秋山は母親の旧姓。 なぎさがこれから対峙する人間は情報感度に長けている芸能界、テレビ業界の人間達だ。〈香道なぎさ〉名義でライター活動をしているなぎさの名前を誰かが目にしていれば、どこかでなぎさの素性が漏れる危険がある。 なぎさの素性を知るのは玲夏とマネージャーの沙織、吉岡社長だけだ。 関係者用IDの名前も〈秋山なぎさ〉で登録している。  撮影スタジオでスタッフひとりひとりの顔と名前、吉岡社長から教えられた各人の予備知識を頭にインプットしている時に、先ほど自己紹介を終えたばかりのスタッフから茶菓子を玲夏のメイクルームの届けて欲しいと頼まれた。 意気揚々と茶菓子の袋を抱えてメイクルームに向かった……まではよかったのだが。  テレビ局に到着してすぐになぎさも玲夏に付き添ってメイクルームに入った。一度行った場所ならば今度はひとりで行ける、目印にした女子トイレを目指せばいいと軽く考えていた。 しかしそんな考えは甘かった。慣れないテレビ局、果てしなく続く長い廊下。当然ながら女子トイレは建物内にひとつではなく、他の場所にもいくつもあった。 どれが目印にしていた女子トイレかわからなくなってしまい、どれだけ歩いても玲夏のいるメイクルームに辿り着かない。 同じ景色が延々と続く廊下の真ん中でなぎさは確信した。……迷った。 (いい歳した大人が迷子って……恥ずかしい!)  茶菓子の袋を抱えて左右をキョロキョロと見回した。潜入調査開始からさっそくこんな醜態では先が思いやられる。 (とにかく誰かに道を聞かないと……って思ってるのになんでさっきから誰ともすれ違わないのよっ) 腕時計を見ると迷ってから15分は経っている。玲夏のスタジオ入りは4時。彼女はまだメイクルームにいるはずだ。 (玲夏さんに迷惑かけるようなことは絶対にないようにしなくちゃ)  闇雲に歩き回るのは危険だと判断して、覚えてる限りで来た道を引き返す。廊下の角を曲がる時に話し声が聞こえた。 (誰かいる。ラッキー! これでメイクルームまでの道が聞ける) 期待を膨らませて廊下を曲がったなぎさは唖然とした。角を曲がった先には薄暗い非常階段の入り口があり、男と女が抱き合っている。 (あの……ここ、テレビ局ですけど?) 音を立てないように曲がり角の壁に身を隠す。耳を澄ませると男女の会話が聞こえてきた。 『今日はこれでおしまい』 「えー。もぅ?」 『もうすぐスタジオ入りだから。また今度な』 「やだぁ。まだ離れたくなぁい」 甘えた口調の女の声と、どこかで聞いたことのある男の声。スタジオ入り……と聞こえた気がした。 (早く離れろ! そしてここからいなくなってくれ! さっさと仕事行けっ! あんた達がいつまでもそこでいちゃついてるから私がそこを通れないじゃないのっ!)  早くメイクルームに行きたい焦りと女の甘えた口調に苛ついて、抱えていた茶菓子の袋を強く握り締めてしまった。カサッと紙袋の音が廊下に響く。しまった……と思った時には遅かった。 『……そこに誰かいるみたいだな。早く行けよ』  男の声が不機嫌な声色に変化する。そのうち階段を上がる音とこちらに近付く足音が同時に聞こえた。 足音が近付いてくる。硬直した身体をやっとの思いで動かして踵を返そうとしたなぎさの肩に手が置かれた。 『覗き見なんて悪趣味だよね』 ひやりとした空気を背後に感じた。ここはきちんと大人の対応をするべきだ。これでも自分は探偵の助手である。臨機応変に……。 肩に置かれた手に怯えつつなぎさは振り向いた。 「申し訳ありません。私は本庄玲夏さんの付き人の秋山と申します。玲夏さんのメイクルームに行こうとして迷ってしまって……。ご不快な思いをさせてすみませんでした」 なぎさは相手の目を見て事情を説明し、頭を下げた。 (よし。私は大人! 大人になれ! なぎさ!)  どちらかと言えば不快な思いをしたのはこちらの方だ。こんな誰に見られるかわからない場所でいちゃつく彼らが悪い。 正直なところ謝罪をするのは不本意だがここは大人になろう。 『君が“付き人のなぎさちゃん”か』 口調を和らげた男がかすかに笑った。なぎさは目の前の長身の男を見上げる。数秒間、彼を見つめてなぎさは驚愕した。 「もしかして……一ノ瀬蓮……さんですか?」 『もしかしなくても一ノ瀬蓮さんですよ。あれ? 気付いてなかった?』  一ノ瀬蓮は端整な顔を(ほころ)ばせて笑った。  ◆一ノ瀬 蓮、31歳。本名同じ 玲夏と同じ芸能プロダクション、〈エスポワール〉所属の人気俳優。 一般公募の有名オーディションで準グランプリに選ばれ、14歳で俳優デビュー。 23歳で主演した映画の演技が絶賛され、日本アカデミー賞主演男優を受賞。ドラマや映画の主演をこなす蓮は人気も実力も若手俳優のトップクラスだ。  蓮はこれから玲夏がクランクインするドラマの出演者のひとりで、玲夏の相手役。吉岡社長から教えられた蓮の情報は以上だ。 他の出演者やスタッフには細かな注意点が付け加えられているが、一ノ瀬蓮には特に注意や警戒は必要ないと吉岡は言っていた。 『ごめんねー。本当はそっちに挨拶に行くつもりだったんだけど厄介な奴に捕まっちゃって。なかなか離れてくれなくて参るよ』 厄介な奴とは先ほどの女のことだろうか? ……それにしても、何だろう、彼のこの軽いノリは。何だろう、この肩に回された手は。 (これでも私は一ノ瀬蓮のファンなんだからね! テレビでは硬派なイメージなのに、なんでこんなにチャラいのよ! 私の長年の一ノ瀬蓮のイメージが崩れていく……) 「あの、一ノ瀬さん?」 『玲夏のとこ行くんだろ? 連れて行ってあげるよ』 「メイクルームまでの道を教えていただければひとりで行けます」 『また迷っても知らないよ。香道なぎさちゃん?』  蓮がなぎさの耳元で彼女のを囁いた。
/64ページ

最初のコメントを投稿しよう!

105人が本棚に入れています
本棚に追加