第一章 梅雨、たびたび動揺

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 本名を囁かれてゾクリと鳥肌が立った。蓮の端整な口元が意地悪く微笑んでいる。 「どうして私の名前を……」 『社長に聞いた。ちなみに言うとなんで君が玲夏の付き人やってるのかも、君の正体も全部知ってる』 なぎさの頭はパニックに陥っていた。肩にある蓮の手が気になって余計に思考が回らない。 (社長? 社長って吉岡さんのことだよね? あの人、なんで関係者に事情をペラッペラと喋ってるの? これじゃあ潜入にならないじゃない!)  蓮に連れられてなぎさは廊下を進んだ。相変わらず頭は回らないのに足は動く、人間の仕組みは器用に出来ている。 『安心しなよ。俺は容疑者リストからは外されてるから』 「……はい。吉岡社長も一ノ瀬さんには警戒しなくても良いと仰っていました」 『俺が玲夏や事務所に嫌がらせする理由はないからねー。社長はそれをわかってるんだよ』  なぎさは一ノ瀬蓮のことをテレビの中だけでしか知らない。彼の人柄のすべてを知らない彼女には、蓮を完全に容疑者から外してしまってもいいのか懐疑的だった。 もしも蓮が嫌がらせの犯人ならばこの潜入調査は水の泡だ。 「失礼を承知でお聞きしますけど、どうして一ノ瀬さんには玲夏さんや事務所に嫌がらせする理由がないんですか?」 『なかなか突っ込んだこと聞くねぇ。じゃあ俺も聞くけど、俺が玲夏や事務所に嫌がらせして得られるメリットは何?』 「それは……」 (確かにそうだ。一ノ瀬蓮が自分の所属事務所の女優や事務所に嫌がらせして得られるメリット? 昔から玲夏さんと一ノ瀬蓮は仲が良いって噂だったし……。そっか、嫌がらせしてメリットがある人物が犯人と考えるともうちょっと絞れる?) 考え込むなぎさを蓮は一瞥した。 『社長はこの業界の育ての親、玲夏とも腐れ縁みたいなものだ。業界では男も女も皆がライバルだけど、玲夏とは長年一緒に育ってきた仲間だからさ』  そう語る蓮の顔は慈愛に満ちている。彼が嘘をついているとは思えなかった。 『俺がこのドラマに出るのも玲夏のため。俺の役は本当は同じ事務所の別の俳優がやるはずだったんだ。でもあの変な手紙が来たり嫌がらせがあったりで、社長命令で俺に変更したんだ。だから俺の目的もなぎさちゃんと同じ。ほら、着いたよ。玲夏のメイクルームここだろ?』  二人が立ち止まった場所はメイクルームの扉の前だった。 メイクルームのプレートには本庄玲夏様と書いてある。間違いなく玲夏のメイクルームだ。 「ありがとうございました」 『ここ、なぎさちゃんが迷い込んでた所から近かったんだよ。なぎさちゃんって方向音痴だなぁ。探偵の助手って聞いてたからもっと凄腕のSPみたいな女を想像してた』 蓮が笑っている。さっきから彼に笑われてばかりだ。 「だってテレビ局って広いから……」 『冗談だよ。今度は迷わないようにしっかり覚えておけよー。……おーい、玲夏』  蓮がメイクルームの扉をノックすると、扉が開いて玲夏が顔を出した。 「なんで蓮となぎさちゃんが一緒にいるの?」 『なぎさちゃんが道に迷っていたからこの優しい優しい一ノ瀬蓮さんが送り届けてあげたんだよ』 「はい……。スタジオからメイクルームまでの道がわからなくなってしまって、通りかかった一ノ瀬さんに連れて来てもらったんです」 恥ずかしくなってうつむくなぎさの肩に玲夏の手が触れた。 「そっか。遅いから心配していたの。蓮に変なことされなかった?」 「特には……」 (変なことはされなかったけどラブシーンの覗き見はしてしまいました……なんて言えない) 『玲夏ー。それだと俺がまるでめちゃくちゃ女たらしのような言い方じゃねぇか?』 「あれー? めちゃくちゃ女たらしじゃなかったの?」 『(ひど)っ。お前のこともたらし込んでやろうか?』 「遠慮しておきまーす」 軽口を叩く玲夏と蓮は仲の良い友達関係に見えた。今の玲夏は早河と一緒にいる時の彼女とは少し違う。 (所長以外の男の人の前だと玲夏さんってこんな感じなんだ)  友達の前での顔と、昔の恋人の前での顔。 どちらも本当の玲夏の顔なのに、少しだけ、何かが違っていた。
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