92人が本棚に入れています
本棚に追加
真紀が手洗いに立つ間に阿部は二人分の会計を済ませていた。
「あの、自分の分は自分で支払いますから……」
『いい。これくらいの金額を払ったところで俺の財布は寂しくならない』
阿部は黒いコートを羽織って白い歯を見せた。もしかするとこの男、かなりモテる質ではないだろうか。
二人はラーメン屋を出て夜道を歩く。
「警視の奥さん、どんな方ですか?」
真紀は阿部の左手薬指に嵌まる指輪の片割れについて尋ねた。
『気の強い天然バカ』
妻の話になると無表情だった阿部の口元が少し綻ぶ。バカの単語には愛情が込められていた。
「家では旦那さんをしている警視は想像もつきませんね。奥さんの前ではデレッとしていたり……」
『上司をからかうな』
阿部に睨まれても以前とは違って怖くはなかった。
『中学の同級生なんだよ。警察庁に入ってからまた会う機会があってな。あっちは警察とは無縁の仕事だったが』
「それから付き合ってご結婚したと」
『そういうことだ』
「お子さんは?」
『もうすぐ二人目が産まれる』
何だかんだで阿部は真紀の質問に答えている。警察庁のエリート警視も家に帰れば夫であり、父親だ。
阿部の父親姿を想像して真紀は吹き出した。
『おい、変な想像してるだろ』
「すみません。だけどお子さんにパパですよーってやってる警視をイメージすると、警視も人の親なんだなぁって思いました」
阿部と真紀は交差点の信号待ちで足を止めた。この交差点を渡ってすぐのコインパーキングに真紀の車がある。
信号が青になって二人はすれ違う人の波を避けて前に進んだ。長い信号を渡りきったところで、前方から頭に黒いパーカーのフードを被った男が近付いてくる。
男を見た阿部が咄嗟に、並んで歩く真紀の腕を掴んで後ろに引く。彼女の重心が後ろに下がった。
『小山。下がってろ』
「え?」
阿部の言葉を聞いたと同時に、真紀の目の前にパーカーを被った男の頭部が現れた。
耳元で聞こえた阿部の小さな呻き声と何かが裂ける嫌な音。
阿部の身体が真紀に寄り掛かる。彼女は阿部と男を交互に見た。パーカーの男の手にはナイフが握られ、刃先は阿部の腹部に食い込んでいる。
「……警視!」
真紀が叫び、男が阿部の腹部からナイフを抜く。滴り落ちた血が地面を濡らした。
側にいた通行人が悲鳴をあげ、パーカーの男は身を翻して人の波を掻き分けて消えた。
赤く染まる腹部に手を当てて阿部は膝を屈めた。真紀が彼の身体を支える。
『小山……奴を追え……』
「でも……」
『追え! 刑事だろう!』
息を荒くして顔を歪める阿部の怒声が響く。通行人が二人の周りに集まっていた。
逡巡の末に真紀は近くにいた男性二人組に救急車と警察の手配を頼む。歩道に寝かせた阿部に脱いだ自分のコートをかけ、男が去った方向へ走り出した。
最初のコメントを投稿しよう!