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後方からまた悲鳴が聞こえた。
「やだ! 来ないで!」
『止めろ!』
「佐伯先生っ! 止めて!」
「早く逃げなさい!」
数々の叫び声のひとつに有紗は反応する。彼女は人でごった返す廊下に立ち止まって振り向いた。
(佐伯……先生……?)
非常階段のある進行方向に向けて人の波が動くが、有紗の足は止まったまま動けない。波が引くように有紗の周りにいた人間達が進行方向に流れると、それまで人の壁で遮られていた後方の空間が開けた。
有紗のいる地点から15メートル程先の廊下にゆらりと動く人影が見えた。他には腕や脚を押さえて泣き叫ぶ女子生徒が三人、生徒の腕や脚からは血が流れていて血痕が床に点々としている。
人影の側にいた男性教師が腹部を押さえてうずくまった。近くにいた美術教師の神田友梨が男性教師を抱き起こす。
友梨は涙を流して人影に向けて手を差し出した。
「洋介さん……お願い。もう止めて……」
『邪魔するな』
人影は容赦なく友梨の腕めがけてナイフを振り下ろし、友梨は悲鳴を上げて床に倒れた。彼女のベージュのセーターに覆われた腕が真っ赤に染まる。
「神田先生っ!」
有紗は友梨の名を叫んでいた。その声に振り向いた人影が視界に有紗を捉えて不気味に微笑んだ。
足がすくんで動けなかった。ドクドクと音を立てて脈打つ心臓に有紗は手を当てる。
──“可愛い有紗。もう誰にも渡さない”──
1年前の12月のあの日。狂った笑顔でこの男は囁いた。繰り返し再生されるあの日の悪夢の残像。
忘れたいのに、忘れられないこの男の顔。
『見ぃーつけた』
有紗を見つけた佐伯洋介は返り血が飛び散った顔を歪めて笑った。その笑いに全身が凍りつく。
「高山さん! 逃げて!」
友梨の必死の叫びも有紗には届かない。友梨は腕の傷を庇いながら佐伯の足にしがみつくが、佐伯は足で友梨の拘束を振り払った。
『友梨。俺は君を殺したくはないんだ。頼むから大人しくしていてよ』
友梨を見下ろす佐伯の冷たい眼差しと声に身震いする。彼女は床に這いつくばって顔を上げた。
「私もあなたにこれ以上罪を犯してほしくない!高山さんはあなたの姪なのよ……!」
『そうだ。姪だから殺すんだよ』
体の向きを変えた佐伯は有紗に近付いた。硬直して動けない有紗は息苦しさで呼吸が速くなっている。
『やっと会えた。会いたかったよぉ、有紗。君を迎えに来たんだ』
「や……やだ……来ないで……」
一歩、二歩と後退りしても距離を詰めてくる佐伯からは逃れられない。彼の手にあるナイフは多くの人間の血を吸って赤く濡れていた。佐伯の服にも血が飛び散っている。
『有紗ぁ……有紗ぁ……本当に君は可愛いねぇ。ますますお母さんにそっくりになってきたねぇ』
佐伯に名前を呼ばれるたびに気持ち悪さで鳥肌が立った。息が苦しい。呼吸ができない。
目眩がしてよろめいた有紗は壁に手をつき、しゃがみこんだ。
逃げなくちゃ。ここから逃げなくちゃ。あの男から逃げなくちゃ。でも足が動かない。
身体の震えが止まらない。
(早河さん……怖いよ……助けて……)
佐伯に拉致されたあの時は早河が駆け付けてくれた。だけどもうあんな奇跡は起こらない。
『さぁ有紗……俺と一緒に行こう。今度こそ俺のものになるんだ』
「嫌……来ないで……来ないでっ!」
有紗めがけてナイフを振り下ろそうとした佐伯の右肩に銃弾が飛び、彼の手からナイフが滑り落ちた。
『有紗!』
早河の声がして有紗は伏せていた顔を上げた。有紗の知らない男と佐伯が格闘する光景の背後から早河がこちらに向けて走ってくる。
「は……やかわ……さん……」
『有紗! 大丈夫かっ?』
早河の腕の中に有紗は崩れ落ちた。手足を痙攣させて荒い呼吸を続ける有紗の症状は過呼吸だ。
早河は彼女の背中に手を当てて優しく撫で、震える有紗の手を握った。
『有紗、もう大丈夫だ。俺がいる。息を止めて10秒数えろ。その後にゆっくり息を吐け。ゆっくりな』
涙を流して苦しげに喘ぐ有紗は早河にしがみつき、彼の指示通りに息を止め、ゆっくり息を吐いた。
『そうだ。そのまま、また息を止めて吐いてを繰り返すんだ。空気を浅く吸え』
有紗は早河の胸元から感じる彼の香りを吸い込んだ。大好きな早河の香りと体温を感じて少しずつ呼吸が楽になってくる。
『PTSDの発作か?』
佐伯に手錠をかけた警視庁公安部の栗山潤警部補は部下に佐伯の身柄を渡して早河と有紗の側に寄る。
『ええ、過呼吸です。だいぶ治まってきましたが……。栗山さん、あの佐伯の様子は……』
有紗に佐伯の姿が見えないように彼女を抱き締める早河は手錠をかけられた佐伯に視線を移す。
佐伯はがっくりと頭を垂らして歩くのもままならない様子だった。栗山に撃たれた彼の右肩には血が滲んでいて止血が施されている。
『いきなり抵抗がなくなったんだ。まるで糸の切れた操り人形みたいだな』
『糸の切れた操り人形……』
佐伯は両脇を刑事に拘束されて連れ出された。佐伯に切りつけられた友梨も刑事に支えられて立ち上がり、泣きわめく友梨を松本理事長が抱き締めていた。
『栗山さん、後のことは頼みます。俺は有紗を病院に』
『わかった。詳細がわかり次第、連絡する』
栗山にその場の処理を任せた早河は発作を起こした後でぐったりしている有紗を抱き抱えた。血やガラス片が散乱した惨劇の余韻の残る廊下や階段を歩いて校舎を出る。
「早河さん……また来てくれた」
『当たり前だろ』
有紗は車の後部座席のシートに寝かされ、なぎさのブランケットを身体にかけられた。
早河の車が啓徳大学病院に向かう。汐留にいる玲夏と蓮の保護に行かせた矢野となぎさからは、まだ何の連絡もなかった。
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