第二章 Doll house

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 矢野は一歩前に出て乃愛と対峙した。 『乃愛ちゃん。君の目的は玲夏ちゃんと蓮さんだろ? 二人が君と話がしたいって言うから今からそっちに行かせるよ』 乃愛は表情の乏しい顔を傾けた。こちらの声は聞こえているだろうが、相変わらず目は虚ろで生気はなく、その姿は上から糸で吊られている操り人形を連想させた。 『乃愛。俺が代わりになる。だからその人を離してくれ』  蓮の声に乃愛が反応した。彼女は笑った口元から歯を覗かせる。 「蓮さん……乃愛のところに来てくれるの?」 『ああ。お前の話なんでも聞いてやる』 蓮と玲夏は乃愛と人質がいる地点まで歩み寄る。二人は一歩、二歩と乃愛に近付いた。 周囲を囲む警官隊には阿部警視の指示が伝わっている。  ぼんやりしている乃愛の視線は蓮と玲夏のみに集中している。矢野は乃愛が蓮達に気を取られている隙に彼女の背後に回り込んだ。 「まずその人を離してあげて。無関係な人を巻き込んではダメよ」 玲夏が優しく諭す。乃愛はまた首を傾げた後にうんと頷いた。20歳を迎えている乃愛はその年齢にしてはひとつひとつの挙動が幼かった。 「関係がある人ならいいんですか?」 「そうね。私を殺したいなら殺しなさい」  人質の女性の首に当てられたナイフが離れて乃愛の腕から女性が解放される。ふらふらとした足取りで乃愛のもとを逃げ出した女性は刑事に保護された。 乃愛がナイフの刃先を玲夏に向けた瞬間に矢野が背後から乃愛の腕を掴んだ。蓮が玲夏を自分の身体で包み込んで庇う。 「……離せ……離せぇっ……!」  矢野に取り押さえられて暴れる乃愛を警官隊が取り囲み、乃愛は必死の抵抗でナイフを振り回した。 「離せ……これでやっと……欲しいものが手に入るのに……蓮さんが手に入るのに……!」 乃愛が振り回したナイフの刃先が矢野の手の甲をかすめて鮮血が垂れ落ちる。警官隊が空に向けて威嚇射撃をした発砲音を聞いた乃愛の動きが止まった。彼女は放心した顔で上空を仰ぐ。 『確保!』  動きが停止した乃愛の周りに刑事が集まり、力が抜けてだらりと下げられた手からナイフが抜かれた。 乃愛は抵抗することなく膝をついてうずくまる。刑事が乃愛を立たせようと試みるが足に力が入らず、自力で立ち上がることもできずにいた。 (何か違和感が……) あんなに抵抗を見せていた乃愛の無抵抗な様子に矢野は疑問を感じた。 「一輝くん、手……血が出てる!」  蓮と玲夏、なぎさが矢野の側に駆け寄る。矢野は切れた手の甲に滲む血をひと舐めした。 『平気、平気。ちょっとナイフかすっただけ』 『無茶はお前の方だよ。手の甲だからまだよかったけど腹でも刺されてたらどうするつもりだったんだ』 玲夏のマネージャーの沙織が救急箱を持って駆け付け、矢野の傷の手当てをしてくれる。矢野はコートをめくった。 『腹はまぁ……これ着てたんで。そこまで深く食い込むことはないだろうと』 矢野の派手な柄シャツの上にベストが着込まれていた。蓮が珍しげにベストに触れる。 『もしかして防弾ベストってやつ? 本物?』 『本物っすよー。ここに来る前に何があるかわからないから一応装着してきたんです。でもこれは防弾機能はあっても防刃機能はないので、グサッとはいかなくても多少は刺さるかもなぁ程度の覚悟はしてました』 『バカ野郎。心配させやがって』 快活に笑う矢野の頭を蓮が小突いた。すぐに矢野の顔から笑みが消える。 『それよりも、俺はまだこれを着ていたからよかったようなものですけど、生身の二人を危険に晒してしまってすみません。山本さんもヒヤっとされたでしょう?』 「確かにヒヤヒヤしましたよ。玲夏がナイフを向けられた時はもう生きた心地がしないくらい。けど玲夏達はそれでも矢野さんに命を託したんです。私も矢野さんを信じていましたから」 矢野の手に包帯を巻く沙織の目にはうっすら涙が浮かんでいた。 『俺も一輝のことは信じてたけどさ、玲夏が殺されるかもと思うと心臓止まるかと思った。乃愛に向かって殺したいなら殺せって……無茶苦茶なこと言いやがって』 「だって……乃愛があんな風に罪を犯してしまったのは私のせいなのよ……」 『お前のせいじゃない! いい加減、乃愛のことで自分を責めるの止めろよ』  顔を伏せる玲夏を蓮は抱き締めた。周りにはまだ大勢の人がいる。騒ぎを聞き付けた報道陣がテレビカメラを回してこれまでの一部始終も中継で流されていた。 「ちょっと蓮……! カメラ回ってる。マスコミも沢山いるのに……」 『そんなことどうでもいい。別にこれがスキャンダルになっても構わない。……玲夏は嫌かもしれねぇけど今は我慢してくれ』 蓮は玲夏をきつく抱き締めて離さない。ドラマのワンシーンと間違えてしまうような光景だった。 矢野もなぎさも、玲夏と蓮のマネージャーも止めに入らない。 『玲夏が無事でよかった……』  玲夏は蓮の震える背中にそっと触れた。安心できる彼の温もりにずっと守られてきたことを彼女は思い出す。 ずっと、ずっと、守っていてくれたのに。 ごめん、気付くのが遅すぎたね。
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